1940年石川県輪島市に生まれた前史雄は、祖父の弟で輪島塗沈金の人間国宝である前大峰の養子となり、漆芸作品に触れながら育ちました。
幼い頃から前大峰の仕事姿を見て育った前史雄は、前大峰と同じく漆芸家になる事を決意し金沢美術工業大学美術学科で日本画を専攻、1963年に卒業します。
大学卒業後は中学と高校の美術教師として学生たちに指導しながら、義父の前大峰に師事し沈金の技術を教わりました。
美術教師として教壇に立ちながら、義父の前大峰から教わった沈金技法を生かして作品制作を始めた前史雄は、28歳の時第9回日本伝統工芸展に「はまうどの花沈金飾盆」という作品を出品し、奨励賞を受賞、初入選を果たします。
その後も前大峰の元で修業を行いながら数々の作品を製作し、33歳の頃には第20回日本伝統工芸展に出品した「沈金稲穂に雀色紙箱」という作品が文部大臣賞を受賞するなど多くの賞を受賞しました。
しかし、その4年後義父としても師匠としても尊敬していた前大峰が亡くなり、前史雄は悲しみに打ちひしがれてしまいます。
それでもなんとか前を向き、その悲しみを打ち消すかのように作陶に没頭しました。
その結果、これまでの功績が称えられ49歳で石川県立輪島漆芸技術研修所の次長に就任し、後世の育成に励みながら作陶を続けます。
その後も52歳の時に第39回日本伝統工芸展で出品した「沈金漆箱「篁」」という作品が日本工芸会総裁賞を受賞、57歳の時には第44回日本伝統工芸展に出品した「沈金漆箱「十六夜」」という作品が日本工芸会保持者賞を受賞するなど功績を残しました。
59歳では、義父と同じく沈金の人間国宝に認定、その3年後には紫綬褒章を受章するなど漆芸業界に大きな功績を残します。
前史雄の作風
前史雄は、漆芸の装飾技法の1つである沈金を使用し作品製作を行っています。
沈金とは、中国宋の時代に開発された技法の1つです。
明の時代では最も盛んに製作されるようになり、中国では槍金(そうきん)と呼ばれていました。
日本に槍金(そうきん)の技術が伝わったのは室町時代とされ、その後江戸時代になると石川県輪島市に住んでいる大工の五郎兵衛という人物が中国の槍金(そうきん)にヒントを得て漆器に彫り物をした事から沈金の歴史が始まります。
それから30年後、同じく輪島市に住んでいた城順助(たちじゅんすけ)という人物が京都で絵画と沈金を学び、輪島市に持ち帰った事で輪島流の沈金技法が完成し輪島塗に大きく貢献しました。
以降沈金技術を習得した技術者を数多く排出し、明治・大正・昭和にかけては沈金の名工が多く生まれます。
前史雄が師として尊敬している前大峰も、明治時代に生まれた沈金名工の1人です。
前大峰は、シンプルな線彫りしかなかった沈金の技法に細かな点を作る点彫りや、片側を斜めに彫る片切彫りなどの新しい技法を開発し、作品に立体感を取り入れていきました。
ちなみに前史雄は、他の道具を使わず沈金ノミだけで模様を作る一刀彫という技法を開発します。