1954年、香川県高松市黒木町に生まれた大谷早人は、12歳の頃小学校の教師を務めていた漆芸家の太田儔と出会います。
太田儔は当時、教師として生徒の指導を行いながら漆芸作品の製作も行う二足のわらじ状態でした。
そんな太田儔の姿を見ていた大谷早人は、子供ながら尊敬の念を抱き高校卒業後、太田儔に師事します。
太田儔のもとで修行を重ねた大谷早人は、太田儔と同じく籃胎蒟醤を得意とし数々の作品を手がけます。
その後24歳で第25回日本伝統工芸展に作品を出品して初入選を果たし、28歳では日本工芸会正会員となりました。
大谷早人の作る繊細な作品は、多くの人から高評価を得て、展覧会でも数々の賞を受賞するなど多くの功績を残します。
40歳では第37回日本工芸会四国支部展で鑑査員に認定され、翌年第12回日本伝統漆芸展で文化庁長官賞、第38回日本工芸会四国支部展で日本工芸会賞を受賞しました。
そして44歳では第45回日本伝統工芸展に出品した籃胎蒟醤十二角食籠という作品が高松宮記念賞を受賞、その後文化庁買い上げとなります。
同年それまでの功績が称えられ、文化の向上及び教育の振興に貢献した人に与えられる教育文化奨励賞を高松市から贈られました。
その後は展覧会の審査員をしながら自身も作陶に励み、48歳で第49回日本伝統工芸展に出品した籃胎蒟醤華文箱という作品が文部科学大臣賞を受賞し文化庁買い上げとなります。
その結果、55歳で紫綬褒章を受章、66歳では6人目の蒟醤の人間国宝に選ばれました。
大谷早人は人間国宝に選ばれた事を受け、「責任を重く受け止めている。香川の漆器は全国的にまだ知名度が低いため、微力ながら全国に香川漆器の良さを広げていければ。」と言われました。
籃胎蒟醤
竹を編んで形を作った籃胎の上に漆を塗り刀で線を描いた上に違う色の漆を埋め込み研ぎ出して作られる技法の事を指します。
籃胎
籃胎は江戸中期頃、久留米藩が京都から塗物師の勝月半兵衛を招き技術を指導してもらい、久留米漆器が作られた事が始まりとされています。
それから月日が経ち明治18年頃、かつて久留米市のお抱え塗師として働いていた川崎峰二郎が中国の漆器の塗り方を目にし、地元の竹製品に活用出来るのではないかと考え、茶人の豊福勝次と竹細工師の近藤幸七の3人で研究して作られたのが久留米籠地塗という作品でした。
籃胎と呼ばれるようになったのは、明治28年に京都で行われた国内勧業博覧会に久留米籠地塗を出品した際、「竹かご(籃)を母胎(素地)とした作品」という声から籃胎という名になったそうです。
蒟醤
蒟醤とは中国からタイやミャンマーへ渡り、その後室町時代中期の日本に伝わります。
中国で填漆という技法が生まれ、その技法がタイやミャンマーに伝わり一般的な漆工芸技法として数多くの作品が作られました。
タイで填漆技法を施した器は薬草入れとして使用されていましたが、そこに入れていた薬草がキンマという名前だったのです。
その為、タイではキンマを入れている器の模様もキンマと呼ぶようになり、その名前がそのまま日本に伝わり、キンマから蒟醤という名前に変わり今に至ります。