金工家の父で斎藤鏡明の息子として東京都西巣鴨に生まれた斎藤明は、小学校を卒業後
父親の斎藤鏡明に師事し、蝋型鋳造の技法を学びます。
新潟県の佐渡島に生まれた父親の斎藤鏡明は、蝋で型を作りそこに金属を流し込んで形を形成する蝋型鋳造の技術に長けていて他の金工家達から一目置かれるほどの存在だったそうです。
また、父親の斎藤鏡明は鋳物工房を設立し、自身の故郷の佐渡島で冬の寒さにより仕事が出来ない金工家達を自身の工房に呼び作品制作を行う場所にしていたそうです。
斎藤明も佐渡島から来た金工家と一緒に作陶に励んだのですが、父親の斎藤鏡明は斎藤明が18歳の時に亡くなってしまいます。
その為、斎藤明は父親の斎藤鏡明が作り上げた鋳物工房を18歳という若さで引き継ぎました。
ですが、まだ技術は一人前ではなかったので父の工房に出入りしていた鋳金家で蝋型鋳造の人間国宝に認定された佐々木象堂と、同じく鋳金家で蝋型鋳造の人間国宝に認定された二代宮田藍堂の指導により自身の技術に磨きをかけていきます。
その後、鋳金家で鋳金の人間国宝にも選ばれた高村豊周の作品に感銘を受けた斎藤明は、29歳の頃高村豊周に師事し、高村豊周が作った高村工房で技術の指導を受けながら働き始めました。
高村豊周に指導を受けながら作品制作も続け、1968年に第13回日本茶器花器美術工芸展に出品した青銅大壺「跡」が文部大臣賞を受賞します。
高村豊周の工房で数年間修行した後、主任まで地位を上げた斎藤明は、高村豊周が亡くなるまで高村工房で働きながら作品制作を続け実績を積み上げていきました。
1972年に高村豊周が亡くなった後、自身の作風を研究するため中国やシルクロード、ヨーロッパなど様々な国へ旅をして壺の形などを研究します。
そして、1973年には浅草寺五十塔院の建立にあたり仏舎利(ぶっしゃり)と呼ばれる道具を制作します。
仏舎利(ぶっしゃり)とは、釈迦が亡くなった際遺骨を入れる道具の事を指し、古代インドの言葉でシャーリラが遺体や遺骨を表す言葉という事から舎利(しゃり)と呼ばれるようになったのです。
そして55歳で日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」という作品を初出品し初入選を果たした事から、以降伝統工芸展で活動を続け73歳では鋳金の人間国宝に認定されます。
その2年後には勲四等瑞宝章を受章しますが、93歳で惜しまれつつこの世を去ります。