岩手県に生まれた小野光敬は、本名を清之助と言います。
高校卒業後日本刀の研師の加藤勇之助に師事し、日本刀の研ぎ方について学びました。
その後25歳になり研師の本阿弥光遜に師事し、更なる技術の向上に努めます。
小野光敬の光敬という号は、師の本阿弥光遜の名から光という文字をもらい付けた号だそうです。
研師の加藤勇之助と本阿弥光遜の2人から研ぎ方について指導を受けた小野光敬は、身につけた技術を持ち30歳で独立を果たしました。
独立後は、自身の技術を生かせるように東京国立博物館で調査員として勤務し、博物館に所蔵されている刀剣類の研磨を行います。
その後は、正倉院に所蔵してある刀剣類や大阪にある和宗総本山の四天王寺に保管されている国宝「丙子椒林剣」と「七星剣」、同じく国宝の「沃懸地獅子文毛抜形太刀」の研磨を手がけるなど貴重な作品の研磨を行いました。
また、55歳から9年間正倉院に収められている第2次刀剣類の研磨に携わるなど小野光敬の技術は国宝の補修に必要不可欠な物となりました。
その後、これまでの功績が認められ57歳で日本万研磨技術保存会の副理事長を務めます。
62歳では刀剣研磨の人間国宝に認定、69歳では日本刀研磨技術保存会の幹事長を務めるなど刀剣研磨の世界において数多くの功績を残します。
今後も多くの活躍が期待された小野光敬でしたが、81歳でこの世を去りました。
日本刀の研師とは
日本刀は技術を持つ刀工が作り出す美しい作品です。
しかし、どんなに美しい作品でも年月が経てば劣化などや錆などは防げません。
そんな状態になってしまう前に元の姿に戻すため、日本刀を研磨するという仕事があり、それを日本刀研師と呼びます。
日本刀研師の始まり
日本刀研師の歴史は、南北朝時代まで遡ります。
南北朝時代では、鎌倉時代末期から室町時代前期の日本の武将を務めた足利尊氏に仕えたとされている本阿彌妙本を祖先とする本阿彌家が当時権力者の刀の研磨や鑑定を行っていました。
また、九代目本阿彌光徳が活躍した時代、差し込み砥ぎという研磨方法と刀剣鑑定法を確立し、鑑定した刀剣には折り紙を付ける事を徳川幕府から保障されるなど当時絶大的な権力を持っていたそうです。
ちなみに、素晴らしい作品に対してよく「折り紙つき」と言いますが、その語源は本阿彌家が素晴らしい刀に付けた折り紙からきています。
本阿彌家から分かれた分家により日本刀の研磨技術は各地に広まりを見せ、現在に至ります。
幕末時代に入り武士が少なくなるとそれに伴い日本刀研磨業も衰退していきましたが、その後刀が美術品としての鑑賞対象になった事で研師の仕事はなくならずに済んだそうです。