1939年本阿弥日洲の息子として東京に生まれた本阿弥光洲は、本名を道弘といいます。
高校と大学卒業後は父の本阿彌日洲に師事し、本阿弥家の光意系18代目を継ぎました。
父の本阿彌日洲から伝統的な技術を受け継いだ本阿弥光洲は、作品の素晴らしさが認められて、32歳の時に出品した研磨技術等発表会にて今後無鑑査での出品を認められます。
その後、本阿弥光洲が45歳の時、彼の技術を認めた文化庁からの依頼で、愛知県にある猿投神社に納められている重要文化財太刀行安の研磨を依頼されます。
さらに、京都にある法隆寺内の聖徳太子の尊像を安置する為に建てられた聖霊院で国宝として納められている卒末呂王(そとまろおう)が所持する太刀の研磨修理を任されるなど研磨師として功績を残しました。
ちなみに卒末呂王(そとまろおう)というのは、聖徳太子の腹違いの異母兄弟で、日本の第31代天皇である用明天皇の三男にあたります。
卒末呂王(そとまろおう)の尊像は、聖徳太子の尊像が安置されている聖霊院の正面からむかって右側の部屋で厨子と呼ばれる戸棚の中に安置されています。
61歳の時には、これまでの功績が称えられ美術刀剣研磨技術保存会の会長に就任し、後世の育成に励みながら研師としての仕事も行います。
69歳では東京都が指定する日本刀研磨技術の無形文化財保持者に認定され、翌年には公益財団法人日本刀文化振興協会の理事を1年間勤め、さらに翌年日本刀文化振興協会理事長に就任しました。
そして75歳では刀剣研磨の人間国宝に認定され、現在でも研師の仕事を続けています。
本阿弥光洲は現在も研師として仕事をしながら後世への指導も行っています。
また、「地鉄は秋の澄んだ空のように青黒くしなさい。刃文は松に積もった雪のようにふんわりと研ぎなさい。」という代々受け継がれている言葉を胸に日々仕事に励んでいるそうです。
そして伝統の研磨技術はあるものの、それだけが大切ではないと本阿弥光洲は語ります。
伝統技術も大事ですが、刀剣研磨師はそれぞれの刀が持ついい部分を引き出す事が重要で、刀工の作風に合わせて見せ所を見極め、それぞれの刀が最高に輝けるよう完成させる事が研磨師としての仕事だと思っているそうです。
本阿弥家
本阿弥家の祖先である本阿弥妙本が足利尊氏の元で刀剣研師として活躍していた事から本阿弥家の歴史は始まります。
本阿弥家本家の9代目本阿弥光徳が差し込み研ぎと呼ばれる研磨法や刀の鑑定法などをあみ出し、その後多くの分家を生み出しました。
本家を初めとし、光二系・光意系・光味系・光益系・光的系・光由系・光龍系・光山系
光珉系・光達系・光沢系など12もの分家が作られました。
数多くの分家が作られましたが、その中でも本阿彌日洲と本阿弥光洲の2人しか刀剣研磨の人間国宝に選ばれませんでした。
ちなみに本阿彌日洲と本阿弥光洲は光意系として活躍していました。