神奈川県で生まれた永山光幹は、本名を永山茂と言います。
14歳という若さで、刀剣研師兼、鑑定家として代々受け継がれている本阿弥家の光味系11代目の本阿弥光遜に師事します。
21歳の頃第二次世界大戦が激しくなってきた事をうけ、陸軍へ召集され中国に行くため一時本阿弥光遜の元から離れました。
ですが、永山光幹は戦時中でも刀の事を頭の片隅に置いており、陸軍では軍刀研磨に携わります。
第二次世界大戦が終戦を迎え無事日本に帰還した永山光幹は、刀剣研磨技術を学ぶため再度本阿弥光遜に師事し技術の取得に励みました。
本阿弥光遜に師事してから15年の月日が経った頃、本阿弥光遜からすべての技術を学んだ永山光幹は、35歳で独立を果たします。
その後永山光幹の技術が認められ、独立を果たした同年日本美術刀剣保存協会が主催した研磨技術等発表会で無鑑査出品が認められ、審査員をも務めるなど功績を残しました。
その翌年、神奈川県平塚市に研磨業を開業し、より多くの刀を研磨できるようにします。
41歳の頃には、永山光幹の技術と功績が称えられ、日本美術刀剣保存協会の貴重刀剣審査員と、同協会の研磨技術等講習会の講師として勤務しました。
研磨技術等講習会の講師として指導してきた頃から、研磨技術を後世にも伝えていきたいと思うようになり、7年後自身の研磨業施設がある平塚市に永山美術刀剣研磨研修所を設立します。
永山美術刀剣研磨研修所では、永山光幹の指導の下短期間で効率的に刀剣研磨技術が覚えられるとあって多くの人々が技術を学びに永山美術刀剣研磨研修所へ訪れて技術を学び、そして、数多くの有能な研磨師を輩出しました。
51歳では神奈川県大磯町の文化財保護委員に選ばれ、その翌年には日本美術刀剣保存協会が主催する新作名刀展にて審査員を務めるなど刀剣研磨界に貢献し、後世への指導を積極的に行います。
58歳ではユネスコ本部からイタリアのベニスにある東洋美術館に所蔵してある日本刀の調査と研磨を行い、65歳では神奈川県の銃砲刀剣類登録審査員を務めるなど日本刀の保存と普及に全力を注ぎました。
晩年は研磨業をしながら後世の育成も熱心に行い78歳で刀剣研磨の人間国宝に認定されましたが、数々の功績を遺した永山光幹は90歳でこの世を去ります。