林駒夫
京都の上京区で生まれた林駒夫は、住まいが御所に近かった事から王朝文化の風情を感じながら幼少期を過ごしました。
その結果、歌舞伎や能など日本の古典文化へ興味を示し、京人形作家への道を歩む事となります。
そして、高校卒業後京人形師の面屋庄三に入門し技術を学びます。
その後、能面師の北沢如意に入門し顔の表現方法などを学んだ林駒夫は、幼い頃に吸収した古典文化から想像力を膨らませ京人形制作に励み、28歳で第11回日本伝統工芸展に初出品し初入選を果たしました。
その後数々の作品を制作し、36歳では日本工芸会の正会員に認定されるなど功績を残します。
人形作家の中には人間の醜さや暗い部分などを表現する人が多いですが、林駒夫は反対に人間が求める理想の姿を人形に表現したのです。
その理由は人間が求める理想の姿を表現する事によって己を磨く高潔な精神が宿ると考えているからでした。
また、林駒夫が恩師とする昭和時代に歌人・人形作家として活躍した平中歳子は学問や芸術に精通した一人の文人としての資質を人形制作に求めました。
この考えに影響された林駒夫は、見た目ではなく内から出る美を人形に表現し、作品制作を進めます。
1973年第20回日本伝統工芸展に作品を出品し日本工芸会総裁賞を受賞した林駒夫は、38歳で第21回日本伝統工芸会にて初めて鑑査委員に任命され、47歳では第30回日本伝統工芸展で初めて審査員に任命されるなど後世の育成にも励みます。
そして66歳で「桐塑人形」の人間国宝に認定された林駒夫は、後世の育成に励みながら現在も作品制作を精力的に続けています。
桐塑人形
桐塑人形とは、桐の木の粉と生麩糊(しょうふのり)と呼ばれる日本では古くから文化財を補修する際に接着剤として使用されていた物を混ぜ合わせた練り物を木彫された土台に肉付けして作られる人形で、この技術は江戸時代雛人形や衣装人形の制作に使われていました。
桐塑は、はじめ粘土のように柔らかいのですが乾燥すると木のように固くなり、削ったり肉付けしたりと調整できるため、細かい造形表現にも適していると言われています。
工程としましては、木彫の土台作りから、桐塑での肉付け、胡粉の下地、最後に和紙や布を貼り完成となります。
工程数的には多くないのですが、人形制作の要所要所で微妙な表現を加えながら制作するため、優れた造形感覚と技量を要します。
桐塑人形の人間国宝に選ばれた林駒夫は、幼い頃から日本の古典文化に触れ、歌舞伎や能などに興味を示していた事から、優れた造形感覚を持ち合わせ、京人形師の面屋庄三と能面師の北沢如意から学んだ技術を生かし優れた作品を多数制作しました。