藤沼昇は、竹工芸が盛んな栃木県大田原市に1945年生まれます。
竹工芸が盛んな町で父親は大工・叔父は建具師という家系だった為、藤沼昇も幼い頃から大工道具の扱いには慣れていて、学校での図工の授業も得意でした。
ですが、将来の仕事に工芸師という選択肢はなく、カメラマンになるという夢を持ち高校卒業後は地元の精密機器メーカーで働きながら、カメラマンになる夢を追いかけ続けました。
そして地元栃木県で自身の写真が文化賞を受賞するまでの実力をつけた藤沼昇は、写真仲間と一緒にフランスへスキー旅行に出かけますが、そこで運命の歯車が動き出したのです。
初の海外旅行でウキウキしていた藤沼昇は、写真家として海外の素晴らしい風景を写真に収めようとしましが、実際に見ている景色とカメラを通してみる景色がまったく違う事に気が付きます。
人間の感覚が素晴らしいと感じた藤沼昇は、ルーブル美術館や凱旋門などフランスの歴史が感じられる場所へ出向き、現地の人から話を聞くなどフランスの歴史や文化を吸収していきました。
フランスで現地の人の話を聞きながらフランスの歴史に触れていく内に、「日本にも素晴らしい文化や歴史があるのに、日本人はその文化や歴史について話せる人はどれくらい居るだろうか・・」と考えました。
そして、「日本の素晴らしい文化と歴史を後世にも伝えていかなければいけないが、伝えられる人がほとんどいない。なら自分が伝えられる人になればいい」と考え、帰国後はカメラを置き日本文化を一から勉強するのです。
工芸家としての活躍
茶道や版画・能面など様々な日本文化を学ぶ中、29歳で運命か偶然か地元で盛んに作られていた竹工芸に出会います。
竹工芸で人間国宝に認定されていた生野祥雲斎の遺作集を見て、竹と人の力だけで作られている芸術作品に感動し、竹工芸家になるため30歳で地元の竹工芸作家・八木澤啓に師事しました。
そこで幼い頃から培った手先の器用さが発揮され、八木澤啓に弟子入りしたものの1年足らずで「もう教える事はない」と言われてしまうのです。
「1年で教えることがないという事は、それだけ技術力がついて認められたという事だ」と思う人が多いと思いますが、藤沼昇は逆で「もっと技術を教えて欲しい、1年は早すぎる」という気持ちだったそうで、その後生野祥雲斎の遺作集を見ながら独自に研究して作品制作を行いました。
その後弟子入りしてから1年で独立したことで周りから妬まれ、陰口を叩かれる事もありましたが、それでも夜通し作品制作に没頭し、落選を繰り返しながらも作品を作り続け41歳で第33回日本伝統工芸展に作品を出品し日本工芸会会長賞を受賞します。
47歳では第39回日本伝統工芸展に束編花藍「気」という作品を出品し東京都知事賞を受賞、そしてこの作品が1996年東京国立近代美術館に所蔵される事となります。
ちなみにこの束編花藍「気」という作品は、周りからの妬みや落選が続いたときに「出る杭は打たれる。なら打たれないくらい大きい杭になればいい」と気持ちを奮い立たせた時に作り出した作品でした。
59歳では紫綬褒章を受章、翌年ロサンゼルス日本文化会館にて個展を開いたところ大盛況を収め、藤沼昇の作品は日本のみならず世界でも評価されるようになります。
2008年シカゴ美術館にて作品のデモンストレーションを行い、2011年には同美術館で個展を開き、翌年の2012年には竹工芸で人間国宝に選ばれました。
人間国宝に選ばれるという事は名誉な事ですが、それに伴い後世への技術の伝授など責任が増えるのも事実です。
藤沼昇は後世の育成について、今の子供は家に床の間がなく掛軸や日本画なども家に飾る環境がないので、竹工芸や美術館などに行って少しでも日本文化に触れてもらおうと考えているそうです。
2014年には伊勢神宮に束編花藍「白連」という作品を献納、翌年には旭日小綬章を受章するなど功績を残した藤沼昇は、現在も精力的に制作活動を行っております。