藤代松雄 重要無形文化財『刀剣研磨』保持者 勲四等旭日小綬章
刀剣の鑑定で抜群の信頼を誇る刀剣研磨師です。
時代の先を行く手段で刀剣の美しさを紹介し、文化財としての重要性を世間に広めました。
藤代松雄
藤代松雄の父親は「早研ぎの名人」と呼ばれていた刀剣研磨師・藤代福太郎です。
13歳の頃から父に師事し、新刀や新々刀の鑑定で第一人者であった12歳年上の兄・藤代義雄からも多くのことを学びました。
兄・藤代義雄は日本刀の芸術的魅力を世に広めようとその研究成果を印刷物として出版し、新聞や雑誌の誌上鑑定、刀の通信販売など、戦前の当時としては画期的で先駆けの存在です。
しかし時代は第二次世界大戦へと向かい、藤代松雄自身も1944年30歳の時に召集され韓国に行っています。
1945年の敗戦では非武装化の一環として日本刀の制作禁止と没収が決定、公式には100万振、一説によると300万振の日本刀が接収・略奪され、一部は土産として海外に流出しましたが、機関車の部品などに鋳直や、石油をかけて焼いた後に海に投棄など、大半の日本刀が失われたそうです。
この出来事は兄・藤代義雄にとって耐え難い苦痛であったようで、同年12月に失踪しそのまま帰らぬ人となりました。
日本刀を美術品として守る為に日本政府は必死の働きかけを行い、登録制での所持や許可制での作刀が可能になるまでに数年を要します。
藤代松雄は兄の遺志を継ぐような形で出版物『名刀図鑑』(1951年)を刊行開始、兄の出版物『日本刀工辞典』を改訂(1961年)の際には、兄との共著の形で新たな資料を加えて完成度を高め、刀剣愛好のバイブルと呼ばれる程素晴らしい辞典です。
このように出版物を通じて新刀、新々刀、現代刀の美しさと魅力を広く世間に広めました。
研磨では研究を通じて古刀から現代刀までそれぞれの特性を熟知しており、その刀剣の良さを生かす技で多くの名品や文化財の研磨を担っています。
また刀剣は価値の判断が難しく専門家の鑑定書に頼ることとなりますが、信頼できるはずの機関が組織ぐるみの不正などを度々行っており信用できず、そんな状況での藤代松雄刀剣鑑定書は現在でも最高の信頼度です。
1996年に重要無形文化財『刀剣研磨』保持者認定、1998年は勲四等旭日小綬章を受章しました。
2004年に亡くなられましたが、その知識と技は次男の藤代興里が引き継いでいます。
刃文写真
古くから刀剣の記録手段として『押形(おしがた)』と呼ばれる石墨(炭素)や鉛筆などの塗料を使って刀剣の姿を紙に写し取る手法が用いられてきました。
押形では簡単に写し取れる刃文は、写真では光の当て方が難しく、全ての刃文をしっかり写すことができません。
そこで藤代松雄は当時最高の写真技術を駆使し、刃文を写真に収めることに成功しています。
1951年に刊行開始した『名刀図鑑』(全22輯) は1958年の17輯から刃文写真が掲載されました。
常に新しい手段で刀の知識と魅力を積極的に発信し、刀の重要性を人々に認識させてくれた功績者です。
大太刀『袮々切丸(ねねきりまる)』
日光二荒山神社の御神刀、南北朝時代に作られたとされる大太刀で、全長324.1cm、重量24kg、刃長216.7cmの日本最大級・最重量級の日本刀として知られています。
1955年に藤代松雄により研磨が行われた際は、このサイズでは従来の砥石の上で刀を動かすような研ぎ方ができず、3人がかりで砥石を手に持って研いだそうです。
その後1967年に国の重要文化財に指定されました。
日光二荒山神社には神刀が三振あり、残りの二振 瀬登太刀(せのぼりたち)と柏太刀(かしわだち)も藤代松雄によって研磨されています。
更に大きな吉備津神社所蔵の大太刀『法光(のりみつ)』(全長377.3cm、刃長226.7cm、重量約13kg)も研磨しており、こちらは3~4人掛かりであったそうです。