本阿彌日洲『刀剣研磨』 人間国宝 勲四等旭小綬章
日本刀は刀匠による作刀に加えて研磨も非常に重要で、その研ぎにより価格が何倍にも変動する程です。
本阿彌日洲は本阿彌家で700年の発展を続けた刀剣の研磨『家研ぎ』と審美眼を受け継ぎ、国内外で重用され、昭和の刀剣界の象徴と言えます。
本阿彌日洲の生い立ち
本阿彌日洲 (本名: 平井猛夫) は1908年に東京に生まれ、父親は現在でも名高い研師の平井千葉です。
平井千葉の研磨は『平井研ぎ』と呼ばれ、どんな刀でも良品に変身させる技で知られていました。
逆に平井研ぎで6千万円の値段が付いた刀が、他者の研磨により1千万円以下に暴落したこともあるようです。
そんな父親の元で育った本阿彌日洲は12歳の頃から本格的に研磨と鑑定を学び、15歳からは父親の師である本阿彌琳雅(ほんあみりんが)にも師事し見込まれました。
本阿彌琳雅は子供がおらず周囲の勧めもあり1927年に養子に入り、しかしその年のうちに本阿彌琳雅が亡くなってしまい、本阿彌日洲は僅か19歳で本阿彌家を継ぎ、実父が引き続き指導します。
本阿彌日洲が29歳の時に実父も他界し、独り立ちするには若すぎるタイミングでしたが、すでに国宝や重要芸術品の研磨を行うなど素晴らしい技術を見せていました。
戦後はその鑑定力が買われ刀剣登録審査委員を務め、研師の立場から現代刀匠に助言するなど伝統的な技法の継承に貢献し、刀剣界の有力者の一人として歴史に名を刻んだ人間国宝です。
本阿彌家
本阿彌家は刀剣の目利き・研磨・手入れをしてきた室町時代から続く名家であり、初代の本阿彌妙本は足利尊氏に仕えています。
特に研磨の技『家研ぎ』が素晴らしく、代々刀剣界を牽引してきました。
本家と分家合わせて13家にまで発展した一族には琳派の創始者としても知られる本阿弥光悦がいる他、俵屋宗達と尾形光琳も縁戚や弟子となっています。
しかし時代の流れには逆らえず、明治の廃刀令により多くの刀剣関係者が廃業に追い込まれました。
そんな苦しい状況で、先々代の本阿彌平十郎成重(へいじゅうろうせいじゅう)は『化粧研ぎ』と呼ばれる仕上げの見栄えを良くする研磨法を開発します。
それを本阿彌日洲の養父・本阿彌琳雅が発展させ、本阿彌日州の実父・平井千葉が完成の域まで極めました。
平井千葉は自分の息子が本阿彌家を継ぐことになり、更に厳しく接したそうです。
本阿彌琳雅は刀剣だけではなく、茶道・華道・書などに精通し卓越した美意識を持っており、行儀作法などにも大変厳しかったようであります。
本阿彌家は研磨と鑑定の技術の伝承を第一として、実子であっても実力が伴わない場合は養子を取っていたそうで、本阿彌日州からさかのぼって5代全て養子という徹底した実力主義です。
その本阿彌家は本阿彌日州の後を三男の本阿弥光洲が継いでおり、本阿弥光洲も人間国宝に選ばれています。
本阿彌日洲のこだわり
本阿彌日洲は「なにごともきちんと丁寧にやれ」が口癖であったようで、効率とは無縁の丁寧な仕事でした。
僅かなサビを取るにも出来るだけ細かい目の砥石を使い、刀を守るように根気良く作業し、刀の持ち味を生かしています。
とても自分に厳しかったそうで「人間は実意丁寧に生きなければいかん」と毎朝6時に起き、朝晩神棚に向かい、正月も3日から働くような生活でした。
そのような仕事と生活への厳格さは、実父と養父の2人から仕込まれたようです。
実父は本阿彌日洲に「師匠」と呼ばせ、亡くなるまでそれは続きました。
幼い頃から仕事に対する厳しさや自分をいじめ抜くことを叩き込まれ、冬場でも暖房のない中での作業を強いられていたようです。
本阿彌日洲が本阿彌家に入ってからは、実父の元で研磨し刀剣を持ち帰り、本阿彌家でも指導が入りました。
その上、名筆家であった養父の元で毎晩毛筆の稽古があり、行儀作法や立ち振る舞いにも厳しかったといいます。
いかなる刀も丁寧に扱い『お刀』と呼び、「お刀を研ぐには心が大事」と実直丁寧に刀剣と向き合ってきた本阿彌日洲はまさに昭和を代表する研磨師です。