堀柳女 人間国宝『衣装人形』 紫綬褒章 勲四等瑞宝章
堀柳女は大正時代にはおもちゃでしかなかった人形を芸術にまで押し上げ、平塚郷陽と共に一番始めに重要無形文化財『衣装人形』保持者に認定されています。
明治~昭和の激動の時代を生き、多くの女性人形作家を育てました。
堀柳女
堀柳女は1897年に東京で生まれ、幼い時に父が亡くなり堀家の養女となります。
子供時代を江戸情緒漂う日本橋で過ごし、道楽者の養父はお茶屋遊びに堀柳女を一緒に連れて行くこともありました。
その後、養父の事業失敗と死去などもあり苦労したそうです。
1916年19歳の時に当時流行していた新雑誌『新少女』の課題画募集に応募し1等に選ばれました。
審査をしていたのが少女の憧れの的であった挿絵画家・竹久夢二であり、感激した堀柳女は手紙を送り文通関係が始まりました。
2年後に実際に会う機会に恵まれましたが、堀柳女が夢描いていた竹久夢二とはかけ離れた姿に幻滅し、連絡を断ったそうです。
そして翌年22歳の頃から荒井紫雨に日本画を学びます。
竹久夢二との再会は1926年堀柳女が29歳の時、竹久夢二のアトリエを偶然見つけこれをきっかけにアトリエに出入りするようになります。
当時の竹久夢二は事実婚の妻とは泥沼の破局、愛人にも見捨てられた状態で、堀柳女は掃除・洗濯などの家事を手伝っていたこともあるようです。
アトリエには画家に限らず多くの新鋭の芸術家が集まり議論を交わし、そこで堀柳女の芸術的感性は大きく刺激を受けます。
堀柳女は自身の病気などでしばらく竹久夢二から離れますが、ふとしたことから作った人形が評判となり銀座の三越で販売されることになりました。
人形を竹久夢二に見せたところ本人も興味が湧いたようで、堀柳女や十数人の仲間と共に人形制作グループ『どんたく社』を結成し人形展を開催、それまで子供の玩具としか扱われなかった人形とは異なり、表情や叙情を重んじた人形が登場し、これは世の中に人形が芸術品としての可能性を認識させる転機となります。
堀柳女は3年後の1930年に個展を開き、この時人形の収集家として知られる画家・西沢笛畝によって『新衣裳人形』と命名されたそうです。
その翌年には鹿児島寿蔵、野口光彦らと甲戌会を結成し、人形を芸術として文展(日展)に出品できるように働きかけ、1936年ついに人形の出品が認められた第1回改組帝展(日展)に入選し人形の芸術としての地位を大きく向上させました。
1937~1943年には後の人間国宝・野口園生も門下生として通った『堀柳女人形塾』を経営し後進の育成にも力を入れ、戦後は女性で初めての日展審査員(1951年)も務めてます。
1955年に重要無形文化財保持者『衣装人形』認定、1967年は紫綬褒章、1973年には勲四等旭日小綬章を受章して、1984年に死去しました。
堀柳女の作風
堀柳女が得意としたのは、江戸時代の華やかな庶民文化の人形です。
子供時代に過ごした明治末の日本橋は江戸の名残を多く残しており独特の世界観があります。
作品の多くは大きな仕草はなく、穏やかで内面が滲み出るような存在感のある人形が特徴です。
堀柳女が特にこだわりを見せている衣装は、幼い頃から収集してきた『裂地(きれじ)』と呼ばれる袈裟や茶道具などに使われる大陸から伝来した伝統織物が使われています。
人形の衣装として使用する際は、色・質感・文様・組み合わせなどを吟味し、気に入った物がない場合は自家製の染織まで手掛ける程の徹底ぶりであったそうです。
また衣装だけに留まらず、髪飾りや履物まで手作りしています。
人間国宝に選ばれた後も新たなことに挑戦を続け、日本に限らず東洋や中近東のモチーフや新たな技術にも取り組み続けました。