市橋とし子『桐塑人形』人間国宝 勲四等瑞宝章
幼い子どもたちを育児中の主婦であった市橋とし子は、33歳の時に人形の魅力を知り、忙しい家事の合間に人形制作を続け人形作家となり、さらには人形製作を芸術の領域までに高め、ついには人間国宝にまで選ばれました。
女性の目と感覚で社会を見据え、本質を見つめた素直な精神で制作された人形は、素朴ながら繊細な優美さがあり温かな気持ちにさせてくれます。
市橋とし子
市橋とし子は明治の末1907年に東京の神田で生まれました。
教師を目指して現在のお茶の水女子大学(東京女子高等師範学校)に進み、17歳の時に担任に勧められて在学中に結婚、4人の男の子をもうけますが、長男と三男は病気で失います。
主婦として忙しい毎日を過ごす中、人形制作を始めるきっかけになったのは1940年33歳の時、転居先の横浜の自宅近くで開かれていた個展の人形に感動したからです。
その個展は当時、女流人形作家の草分け的な存在であった今村繁子によるもので、市橋とし子はすぐに今村繁子の家を訪ねて弟子となり、子育てや家のことが忙しいながらも週1回の稽古に通いました。
第二次世界大戦の激化により稽古はなくなり人形制作も中断していましたが、戦後1949年に偶然路上で今村繁子と再会し、市橋とし子はその年に開催される『第1回 現代人形美術展』のことを知り、強く勧められ出品し特選第1席を受賞します。
翌年も特選第1席を獲得しその後も出品を続け、後に審査員を努めました。
市橋とし子は今村繁子から人形作りの基本と真髄を学んだ後、独学で試行錯誤しています。
1954年にはより人肌に近い質感を求めて仕上げに和紙を用いた『紙貼り』の手法を取り入れ、1965年は彫刻家の金子篤司から彫刻デッサンや木彫りの技術を学び、人形制作に取り入れ更に技巧を極めました。
日本伝統工芸展 鑑査委員、日本工芸会理事・人形部会長なども努め、多くの後継者を育てます。
人間国宝となってからも活発に個展などを開き、多くの人を感動させていたそうです。
市橋とし子の人形制作
市橋とし子の代表的な手法は『木芯桐塑(もくしんとうそ)』と呼ばれ、桐塑(とうそ)とは桐のおが屑と生麩糊(しょうふのり)をこねた粘土のことです。
廃棄されるような存在のおが屑と小麦粉から作る糊は安価で主婦でも気負うことがなく、台所の鍋で手軽に粘土を作ることができました。
粘土は桐の木を芯として盛り付け乾燥後に彫刻、それを繰り返し最後は和紙や布貼り又は胡粉で仕上げです。
人形制作は桐塑の技術だけでなく、彩色、顔の表情、人体の表現、衣服、台座など多岐に渡る要素が詰まっており、その総体で一つの作品となります。
そして技術の素晴らしさに加えて、人間の心を惹き付けるような魂が宿っている人形であるかどうかも重要です。
市橋とし子は人形づくりは人間讃歌そのものと語っており、モチーフは自身の身の回りの人々、幼児、少女、老人などの日常生活の飾らない姿を暖かく表現しました。
第二次世界大戦を経験し、4人の子供のうち2名は病死、人形作りを応援してくれていた夫は56歳の若さで亡くなってしまうという辛い運命と向き合っています。
前向きに人生を楽しみ、みんなが平和に生きていけますように、との願いを人形に込めているそうです。
自らの普通の感覚をそのまま表した人形は、どこか懐かしく優しい気持ちにさせてくれます。
「未来を語ろう」と弟子たちとの勉強会は40年以上も続きその精神は次世代に引き継がれており、今も弟子たちが活躍中です。