野口園生 重要無形文化財『衣裳人形』保持者
30歳で堀柳女人形塾に入門し、人間国宝まで登り詰めた人形作家です。
浮世絵から出てきたような女性や、生活感を優しく懐かしく表現した独特のユーモアがある作品を生み出しました。
野口園生
野口園生は1937年30歳の時に10歳年上の堀柳女の人形塾に入門します。
師・堀柳女は人形作家の先駆けであり、江戸情緒の人形を得意とし、衣装人形での人間国宝第一号でもありました。
野口園生は浮世絵も勉強して人形のモチーフとして取り入れ、師・堀柳女の影響もあり、初期は浮世絵美人の人形を中心に制作します。
入門した翌年に申戌会芸術人形展へ出品、翌1939年 童宝美術院人形展にて奨励賞、更に翌年は優秀賞を受賞しますが、戦争の激化により堀柳女の人形塾も解散しました。
戦後に人形制作を再開し、1947年日展に出品、1950年には自身の人形塾『蒼園会』を開始し、1955年にその蒼園会の展覧会を開催、この頃から作風に変化が訪れます。
それまでの浮世絵のような作風から、胴体は直線的で丸いなで肩、そこからひょいと突き出したような顔は丸く下膨れのおちょぼ口、と独特の愛嬌あふれるスタイルになりました。
人形の衣装は師・堀柳女の影響もあり『裂地(きれじ)』と呼ばれる袈裟や茶道具などに使われる大陸から伝来した伝統織物を使用し、師と同様に多くの裂地を収集し自ら染色もしていたようです。
人形本体は木芯に乾燥させたヘチマを巻く桐塑(とうそ)の手法を主に用いていますが、木彫りや新しい素材も積極的に採り入れています。
1950年代中頃には透明感のある素材であるプラスチックの魅力に虜になり、集中的にプラスチック素材の人形を制作しています。
残念ながら経年劣化の変色などの問題がありプラスチックを使用しなくなりますが、このように常に新しいことに取り組む柔軟性がありました。
生涯に渡って師と仰いだ堀柳女は、野口園生が人間国宝になる2年前に亡くなっています。
野口園生はとても口数が少なく、恥ずかしがり屋で控えめな性格であったようで、それは人間国宝に認定後も変わらなかったようです。
謙虚で押し付けがなく、控えめながら人々をほのぼのとさせる、そんな人形を制作した人形作家でした。