【荒川豊蔵】買取作家・取扱い一覧 人間国宝・重要無形文化財保持者

荒川豊蔵

荒川豊蔵
荒川豊蔵(1894~1985)

荒川豊蔵は昭和期を代表する美濃焼の陶芸家で、「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。
生まれは岐阜県土岐郡(現在の多治見市)、加藤与左衛門景一の直系で、彼は美濃焼の陶工の血筋を受け継いでいます。

地元の学校を卒業後、神戸の陶磁器貿易商や多治見の陶磁器貿易商で働き、25歳の時に、ある特殊な絵具による手描きの上絵磁器コーヒー茶碗のプロデュースをしました。
絵付けは日本画家の近藤紫雲に依頼し、出来上がったコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛へ持ち込むと高価で買い上げられたことから、独立して上絵磁器制作の事業もおこしています。

残念ながら後にこの事業は失敗してしまいますが、錦光山宗兵衛の顧問をしていた宮永東山と縁があったため、28歳の時に京都の宮永東山に師事し、東山窯の工場長を任されました。宮永東山の元では一流の焼き物を見る機会も増え、後に東山窯を訪れた北大路魯山人と親交を深め、北大路魯山人の手伝いで鎌倉へ移り、鎌倉の星岡窯で作陶に関わります。

星岡窯には荒川豊蔵の専用の轆轤がありましたが本格的な作陶は行わず、1930年に名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と、志野筍絵茶碗を見せてもらったのがきっかけで古志野へと興味を抱き始めます。
この頃、古志野は瀬戸で焼かれたというのが通説となっていましたが、現在の可児市久々利大萱の古窯跡を調査した荒川豊蔵は志野が美濃で焼かれたことを明らかにしました。

志野の発見から数年後39歳の時星岡窯を辞め、自身が志野を発見した大萱に登り窯を築窯し、本格的な作陶活動を始めます。
最初の頃の窯では三晩四日かけて焚き続けてもなかなか温度が上がらず、意識を失って倒れるまで作陶を行ったこともあります。その後は古窯跡から見つけた陶片を頼りに志野、瀬戸黒、黄瀬戸の再現に専念し、復興に尽力しました。

当初は桃山期の志野、瀬戸、織部などの再現を研究して、桃山写しの作品を制作していましたが、大胆な箆使いと造形で次第に独自の作風を展開していき、1941年には初個展を大阪で開催しています。
その後、数々の功績を認められた荒川豊蔵は1955年重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」の保持者に認定されました。

現在、岐阜県東濃地方のみならず、全国で多数の陶芸家が志野や織部を手掛けていますが、その根底には、荒川豊蔵が美濃桃山陶器のルーツを明らかにし、昭和の志野を作り上げたことが大きく作用しています。
荒川豊蔵の作品は茶陶が主で、成形には手廻し轆轤を用いて、作為的な技巧は極力行いませんでした。
豪快で野性味にあふれていながら自然の深淵を感じさせる作品は「荒川志野」と呼ばれ、誰にも真似できない境地に達し、昭和を代表する陶芸家となっています。

荒川豊蔵年表

1894年 岐阜県土岐郡生まれ。

1906年 多治見尋常高等小学校高等科卒業。

1922年 京都の陶芸家・宮永東山に師事、同年、東山窯工場長となる。

1927年 北大路魯山人に招かれ鎌倉の星岡窯で窯場主任となる。

1930年 岐阜県大萓で桃山時代の志野・瀬戸黒の古窯跡を発見・調査。志野が美濃で焼かれていた事を実証。

1933年 星岡窯を辞任。大萓に戻り築窯。

1936年 北大路呂山人と丹波古窯跡の発掘調査。

1940年 川喜田半泥子と京都鳴滝の尾形乾山窯を調査。

1941年 大阪で初の個展を開催。

1942年 川喜田半泥子と「からひね会」結成。

1944年 金重陶陽の窯を訪問滞在 備前焼制作。

1946年 多治見市に「水月窯」を築窯。日本農村工芸振興会設立。

1947年 日本陶磁器振興会設立。

1955年 志野焼と瀬戸黒で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。

1971年 文化勲章受章。

1984年 財団法人豊蔵資料館開館。

1985年 逝去。

荒川豊蔵代表作

『志野茶碗』

『黄瀬戸砧花入』

『赤絵金彩橘絵茶碗』

『瀕戸黒茶碗』

『黒唐津茶碗 銘老松』

『瀬戸黒水指』

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