平田郷陽の作品を買取ります
平田郷陽は東京都出身の明治~昭和時代に活躍した日本の人形作家、人形師です。
初期の頃は父親である初代・郷陽の技術を継承した生き人形(活人形)や、実在のモデルを使用した写実的衣装人形を手掛けていましたが、戦後からは前衛的でややデフォルメされた木目込み人形など造形的な作品を多く手掛けるようになりました。
また、人形界初となる重要無形文化財の指定を受けており、人形芸術というジャンルを確立した人形作家です。
幼い頃から父親の仕事を見て育った平田郷陽は生き人形の制作技法を習得し、父親がこの世を去ると2代・郷陽を襲名しました。
日本人形の制作者として端正なリアリズムを持つ人形の制作していた事から、その技量が買われ、1927年にアメリカから日本に贈られた青い目の人形の答礼人形として市松人形の制作を行い、そのコンクールで見事1位を獲得しました。
当時の日本では人形は玩具としての認識が強く芸術として認められていませんでした。
しかし、平田郷陽は日本における創作人形の地位向上のために白沢会を結成し、その数年後には日本人形社を設立しました。
こうして同人たちとともに帝展で入選を果たすと、後の文展、日展でも活躍を見せ、日本政府の依頼を受け、ベルギーやフランスで開催された万国博覧会に衣装人形を出品します。
この事をきっかけに世界的も認識されるようになった平田郷陽と作品は芸術として認められ、重要無形文化財「衣裳人形」保持者の認定を受けました。
平田郷陽は作家として活躍する一方で、私塾・童人舎人形塾を開設して人形作家を志す若手の育成にも尽力しており、日本の人形作家の第一人者としてこの世を去るまで精力的に活動を続けました。
また、人形作家として芸術性を極めていく前の少しの期間だけ市販品としての人形の制作を行っており、その時制作された人形がいくつか現存しており、中古市場でも高値で取引されています。
通常、市販の人形にはリアルさを追求したものが多く、怖さを感じてしまうものも多いのですが、平田郷陽が手掛けた市販の人形は温かみのある表情を持ち、人形が語りかけてくれるようなそんな雰囲気を持っているところが人気の一つとなっています。