石川県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の漆芸家です。
重要無形文化財「きゅう漆」の保持者として知られており、きゅう漆とは下地塗から仕上げ塗までの工程の事をいい、漆芸の根幹をなす重要な技法です。
この漆芸の伝統技法をベースに麻布、和紙を漆で貼り重ねる乾漆技法を中心に手掛け、端正な器体に朱漆塗、溜塗、変り塗などを駆使し、深い光沢をもった独自の作風を確立し、麻布の素材感をいかすために輪島地の粉を漆に混ぜて強度を高めるなどの創意工夫が蓋物、鉢、盤、器、盆などに見る事ができます。
輪島市河井町の輪島塗塗師・角野勝次郎の四男として生まれた塩多慶四郎ですが、幼い頃に母親の実家である塩多家の養子となり塩多姓を名乗る事になりました。
塩多家も輪島塗の塗師をつとめる家系で、養父・塩多政はその3代目として活躍していました。
輪島町立男児尋常高等小学校卒業すると養父・塩多政に師事して輪島塗の修行を開始しますが、戦時中は滋賀県大津海軍航空隊所属となり、そこで終戦を迎えます。
復員後は家業を手伝うかたわら、大日本紡績大垣化学紡績工場試験室に勤務し、科学塗料の研究を行いました。
26歳で家業の塩多漆器店4代目を継ぐと本格的に輪島塗に携わるようになり、勝田静璋に師事して蒔絵を学びました。
こうして日本伝統工芸展で初入選を果たし、日本伝統工芸展を活動の拠点とすると次々と作品を発表していき、受賞を重ねていきました。
文化庁・日本工芸会共催の技術伝承者養成事業に参加した際、生涯の師と仰ぐ松田権六と出会い「塗りと形が良ければ加飾などいらない」という言葉を受け、漆塗の持つ本当の美しさを追求するようになります。
こうして実力を身につけた塩多慶四郎はその実力が認められ、石川県立輪島漆芸技術研修所助講師に就任し、東大寺南大門阿形仁王像大修理に際して「胎納仁王経納入箱」を、正倉院宝物「漆彩絵花形皿」の模造制作を行うなど日本を漆芸家として活躍を見せました。
その後も重要無形文化財輪島塗技術保存会会員、日本文化財漆協会理事、日本工芸会理事などをつとめ、漆芸界の伝統を守りながらも発展に尽力し続けました。