生野祥雲斎『竹芸』人間国宝 紫綬褒章 勲四等旭日小綬章
芸術として見られていなかった竹芸で初めて人間国宝に選ばれ、竹工芸に携わる人々に勇気を与え可能性を広げました。
生野祥雲斎
1904年に大分県別府市に生まれた生野祥雲斎は子供の頃から絵画や彫刻に興味がありましたが、喘息のため美術学校進学を断念し19歳の時に地元で盛んであった竹工芸の道に進むことを決意します。
ただ職人になるのではなく、ただの日用品であると見下げられている竹芸を芸術にして「竹で天下を取ってやる」という熱意がありました。
そして展覧会で見かけた自分より僅か3歳年上の若き籠師・佐藤竹邑斎(ちくゆうさい)の作品に感動し弟子入りに至ります。
佐藤竹邑斎は安価な土産物には手を出さず唐物様式の高級花籠だけにこだわり、数々の賞を獲得し皇室への献上品も制作していました。
そんな師の元で生野祥雲斎は夜寝る間も惜しんで修業に励み、通常の半分の2年で独立に至りました。
師・佐藤竹邑斎はその3年後の1929年に28歳の若さで逝去しています。
生野祥雲斎は師と同じ高級花籠を作り続け、1936年26歳のときに工芸家・藤井達吉に自信作を見てもらうと「うますぎる、竹が死んでいる」と評価され、技だけに走っていた未熟さを痛感しました。
また同郷の洋画家・宮崎豊の新文展 初入選を聞き、刺激を受け自身も新文展へ挑戦します。
落選が続きましたが、大分県工業試験場別府工芸指導所で職を得たことから生活が安定し、1940年に入選を果たしました。
徴兵された戦時中を生き抜き、戦後は日展や日本工芸会で活躍し、重要無形文化財『竹芸』保持者に認定されています。
『竹芸』での人間国宝は史上初であり、以後の認定は『竹工芸』となっているので『竹芸』ではただ一人の保持者であり、最初に竹を芸術まで高めた功績者です。
作風の変化
生野祥雲斎の作風は生涯を通して大きく変化しました。
師・佐藤竹邑斎からの独立後約10年は師匠と同じく唐物様式の高級花籠を中心に精巧で緻密な作品を制作していました。
藤井達吉による竹を生かせていないという指摘や新文展3回連続落選により、櫛目編みを主体として清らかさや弾力といった竹の特性を生かしたすっきりとした作風となり入選を果たしています。
戦後1953年に日展で落選し、後に「この落選がなければ、今の自分はなかったかもしれない」と語るほどの転機を迎え、この時から竹芸の『用』からの脱却を図り、近代アートの彫刻のような純粋な造形美を表現するようになりました。
波・炎・陽炎などをモチーフとした作品など繊細かつ圧巻の作風で日展でも特賞などを獲得しています。
1966年に活動の場を日本工芸会に移してからは一転、シンプルな『用の美』を追求し、幅の広い竹を使うようになり8年間最後までこの作風を貫きました。
生野祥雲斎の弟子
生野祥雲斎の弟子は祥門会と呼ばれ、様々な形で活躍しています。
生野祥雲斎の長男であり、生野祥雲斎が趣向を凝らした此君亭工房を引き継ぎ、日展特選などで注目されている生野徳三を始めとして、木村新、下田和泉、田辺信幸、山口龍雲、安倍基、本田健次(卿雲斎)が有名です。
大分県工業試験場別府工芸指導所で指導に当たっていたことから、この他にも沢山の生徒がいます。
そして竹工芸を芸術として世間に認識させたことにより、竹に関わる多くの人を勇気付け後進の足掛かりとなりました。