谷野剛惟 重要無形文化財『名塩雁皮紙』保持者 旭日小綬章
谷野剛惟は雁皮に泥を混ぜる独特の製法で、保存性に優れ紙肌が美しい名塩雁皮紙を漉いている人間国宝です。
通常手漉きは均一の濃さの紙料液を使用しますが、谷野剛惟は手前にある原料の土手を崩しながら均一に漉いていく『溜漉き』という至難の技を持っています。
谷野剛惟 (本名: 谷野 武信)
谷野剛惟は1935年、兵庫県の六甲山の麓にある名塩に生まれます。
そこでは六甲山に自生する雁皮を原料とする名塩雁皮紙の生産が盛んであり、谷野剛惟も小学生の時から父親が創業した『谷徳製紙所』で嫌々手伝わされていました。
家業を継いだのは母親に「これだけ設備があるのにもったいない」と言われ、病弱であった父親のこともあり仕方なくであった上に、師事しても教えて貰えず父親の背中を見て技術を盗む必要があったそうです。
数年はうまく行かず何度も辞めようと思ったそうですが、それでも伝統の技が失われてしまう、という使命感を糧に踏ん張り、さらに日本各地に残る古い襖紙を調べ歩き熱心に研究しました。
戦後しばらくは襖紙の不足、そして父親が金箔打原紙の制作も開始したことから、忙しい日々であったようです。
その後日本の住宅事情の変化により襖紙の注文は激減し、文化財の修復用紙が主な仕事となりました。
谷野剛惟は名塩雁皮紙が地元兵庫県の応挙寺で使用されていることは聞いていたのですが、日本全国の国宝級の襖の修復に必要不可欠で唯一無二の存在であることを発見し、それが原動力になったそうです。
2002年に人間国宝に認定され、良い紙を漉き続けたいと気持ちを新たにし、現在は高齢であることから息子の谷野雅信が三代目として谷徳製紙所を継いでいます。
名塩雁皮紙
名塩雁皮紙は雁皮(がんぴ)と呼ばれる栽培できない野生の木を原料としています。
日本でも限られた温暖な土地のみに生息し、その中でも六甲山の雁皮は繊維が短く強靭であるそうです。
10年かけて指ほどの太さになった枝のみを採取し、また10年後に採取ということを何百年も繰り返してきました。
雁皮の繊維は半透明であり、紙にすると光沢や透けが美しく独特の魅力があります。
さらに地元特産の泥土(凝灰岩)を微細に砕いて混ぜることにより、虫害・鼠害を防ぎ、防炎・耐熱・遮光に優れ、変色・シミ・伸縮が少ない紙となりました。
色味は白(東久保土)・青(カブタ土)・黄(尼子土)・茶褐色(蛇豆土)があり、単色または混ぜることで独特の色合いが生まれます。
また水も非常に重要で、山水でなければ良い紙が漉けないことから、谷野剛惟はパイプで専用の水を引いているそうです。
400年の歴史を持つ名塩雁皮紙の起源は、東山弥右衛門という名塩の妻子ある男が越前で重婚をしてまで雁皮紙の工法を持ち帰ったことが始まりとされており、伝説として残っている越前の妻子の悲しい話は水上勉の『名塩川』という小説にもなっています。
江戸時代には越前に並ぶ紙漉きの名産地となり『名塩千軒』と呼ばれ繁栄しますが、明治以降機械での製紙業が発展したことと土地開発による立ち退きなどあり、谷野剛惟が生まれた頃に70軒あった名塩雁皮紙の手漉きは戦後25~6軒となり現在では2軒のみとなりました。
谷徳製紙所は『間似合紙』、もう一軒の馬場製紙所は金箔打原紙を得意としています。
間似合紙
間似合紙は襖の下地に使う紙で、骨組みに重ねて貼る7層の紙のうち、内側の2層目となります。
幅が襖の横幅に合わせてあり、縦に4~5枚並べて襖1面に貼ることができ、日本建築のどんな『間』(幅)にも合うサイズであることから『間似合紙』と呼ばれているそうです。
襖の他に壁紙、絵巻物、短冊や、その丈夫さから江戸中頃から西日本の藩札にも使用されていました。
白い泥を使用した間似合紙は継目がめだたない白壁となり、300年前に貼られた二条城、桂離宮、西本願寺の名塩雁皮紙の壁紙は色あせていないそうです。
近代では高級な襖紙として、また重要文化財の襖紙・壁紙・修復用紙として重要な役割を担っています。