吉田文之 重要無形文化財『撥鏤』保持者 勲四等旭日小綬章
象牙を鮮やかに染めて彫る撥鏤(ばちる)技法は、千年以上前に途絶えて幻の技術と言われていましたが、吉田文之と父・吉田立斎によって蘇りました。
吉田文之
吉田文之は1915年 奈良の漆芸一族の家に生まれました。
祖父は春日大社・東大寺・興福寺の御用塗師、父親は正倉院宝物や奈良の古社寺の文化財の修復に従事した吉田立斎(1867~1935)、そして『螺鈿』の人間国宝・北村昭斎は父親の弟の孫に当たります。
そして吉田文之は父親が48歳の時に生まれた待望の長男で、16歳から父親に師事し助手として正倉院宝物の復元修理にも参加しました。
1935年20歳の時に父親が死去、直後に陸軍に入隊し日中戦争から第二次世界大戦の終戦まで11年もの間 漆芸から離れ、復員後31歳で再び漆芸の道を歩み始めます。
父・吉田立斎が復元を試みた古代の技術は多彩で、『撥鏤』の他に法隆寺の玉虫厨子に使われた『密蛇絵』(みつだえ)や、螺鈿の薄貝の代わりに金銀を用いる『金銀平脱』(きんぎんのへいだつ)がありました。
吉田文之は戦後、脊椎カリエスという難病を患ったこともあり、父親の技術を全ては引き継がず『撥鏤』の研究と制作のみに専念します。
父親の残した物に自分で研究や試行錯誤を重ね、その撥鏤技術を用いて帯留、簪、ブローチ、ペンダント、タイピンなどのアクセサリーや香合、棗、箸などを現代風に創作し、日本伝統工芸展に出品を重ねました。
そして1978年についに『紅牙撥鏤尺』1983年に『紅牙撥鏤撥』の復元を成し遂げます。
こちらはそれぞれ調査に1年、彫るのに1年かかったそうで、父・吉田立斎と吉田文之の2代に渡る研究と技の集大成となり、その後1985年に人間国宝に認定されました。
撥鏤(ばちる)
象牙の表面を紅や紺に染め、彫刻をすることで彫った部分に白の素地が現れ文様を表現する技法です。
中国では8世紀頃の唐代に最盛期を迎え、伝来した奈良時代の日本でも制作されていましたが、この時期を最後に日本でも本場中国でも制作されなくなりました。
撥鏤が数多く収納されている奈良の正倉院は8世紀に光明皇太后が夫・聖武太上天皇を偲んで遺愛の品を東大寺の大仏に奉献したことが始まりとされており、現代では国宝そして世界遺産に指定されています。
1000年以上前の芸術品が残っている正倉院は奇跡の存在ですが、さすがに原型を留めていない宝物も多く、撥鏤の材料としての象牙も残っているようですが、化石化しているそうです。
明治初期に政府が正倉院の大規模調査を行ったところ、傷みが激しい宝物が数多くあったため、修理と並行して模造復元が行われるようになります。
宝物を蘇らせるべく原料や工法を科学的に分析し職人の知識と技で再現しており、撥鏤もその一つです。
まずは原料の象牙は、中が空洞になっていない先端のごく一部分しか使用できず、アジア象かアフリカ象に関しては硬さが均一であるアジア象であると推定されました。
染料に関しては2013年の可視分光分析により紅の染料は臙脂であることが判明しています。
象牙表面の着色は10年以上染料に漬けておく必要があるとされてきましたが、吉田文之の編み出した方法は加熱と冷却を繰り返すことで、約1週間で定着が可能となりました。
彫りは吉田文之が考案した筆先よりも細い彫刻刀で、刀の先を跳ね上げるように彫る『撥ね彫り』技法が考案されています。