隠元隆琦【買取・新着情報】

隠元隆琦
2016.1.22

隠元隆琦

(いんげんりゅうき 592年~1673年
隠元隆琦は禅宗の流派の一つである黄檗宗を開いた僧侶であり「インゲンマメ」を輸入し「インゲン」の由来となった人物です。
福建省福州福清の出身であり、俗姓は林、諱(いみな: 生前の名前)は曾へい (そうへい) 、子房と号し、僧名を隠元、名を隆琦といいました。



隠元禅師の生涯

隠元隆琦 幼少期~

隠元隆琦(生前の出家前の本名を「曾へい」という)がもともと生まれ育った家庭は貧しく、木こりや農耕を営み、少年・曾へいは荘厳な自然と共に育ちました。すでに10歳のころから仏門に開眼し、出家を望んでいましたが、働き手が減る事を怖れた母に出家修道を止められていました。21歳の時に、消息不明だった父を探しに浙江省方面へ旅に出たものの目的を果たすことが難しく、その足で観音霊場のある普陀山に赴きました。
その中の潮音洞に入り一年間、茶頭を務めました。曾へいは28歳になった頃に母を喪います。そして29歳の時に得度をします。地元の黄檗山萬福寺の艦源興寿に就いて出家し、その後名僧についての知識や師匠との出会いを求め各地を遍歴します。

隠元隆琦 僧としてのキャリア

1624年(天啓四年)に金栗山廣慧寺の密雲圓悟に参見し密雲という僧の元で修業を修めます。1630年(崇禎三年)には 密雲の黄檗山晋住に随待しました。 1633年(崇禎六年)に密雲の後を継いだ費隠の法を嗣ぎ、46歳の時1637年(崇禎十年)に萬福寺の住持となります。黄檗山の復興と発展に尽力し、宗衆雲集(黄檗宗の修行者を組織)して、一大禅林を完成させました。


隠元隆琦 60代の決意

険しい生涯を送り、厳しい修行を積み重ねた隠元の説法はわかりやすく快活であったことから人気が高く、隠元の名声は日本にも及んでいきます。1652年の4月(承応元年)長崎・興福寺の住持・逸然性融(いつねんしょうゆう)から一度目の招請状が届きます。隠元は老齢を理由に最初はこれを辞退するのですが、同年8月、翌年3月、同年11月と計4度にわたる招請についに応請し、来日を決意しました。隠元63歳の出来事でした。
1654年(承応三年)隠元は獨言性聞、獨知性機、大眉性善など総勢二十名の弟子とともに長崎に着きました。隠元は興福寺と崇福寺。摂津普門寺を歴任していきます。摂津普門寺においても龍渓という僧と摂津普門寺の僧たちが隠元を招へいしようと奔走したことが実り、隠元は1655年(明暦元年)龍渓の住持する摂津普門寺に迎えられています。ここでも隠元の説法を求めた日本人僧侶が多く集まったため、寺に集まる僧侶が一日200人以下となるよう幕府から規制を受けたほどのハプニングとなりました。
以前より長崎に渡来していた中国僧は隠元の下に集まり、隠元の来着を待っていた臨済・曹洞の僧侶の百人近くが長崎に馳せ参じたといいます。このことから隠元が厚い人望を得ていたことがわかります。 長崎で教化に努めた隠元は当初3年で帰国する予定だったものの、その意向とは別に隠元を妙心寺に迎える運動が龍渓宗潜、禿翁妙周を中心に起こりました。しかし、この運動に対して保守的な妙心寺内では猛烈な反発が起こり、招へいは失敗に終わっています。
1658年(万治元年) 隠元は67歳のころ、龍渓らの斡旋により、将軍・徳川家綱に謁見しました。翌年1659年に京都近郊に一寺を建てさせるという幕府の意向が伝えられます。この事によって隠元はついに帰国を断念し、在留します。一寺を建立して開山者となり仏の法を日本に興隆することを決心したのです。
その後、大老・酒井忠勝の慫慂から幕府より京都の山城宇治郡大和田に土地が与えられ、寛文元年(1661)五月より新寺の創建が始まりました。旧きを忘れない想いを込め、故郷の中国福建と同名の「黄檗山萬福寺」と名付け、1661年8月29日に晋山しました。 その後が伽藍の建立も順調に進み、法堂、浴堂も建ち、1663年(寛文三年)の正月、法堂にて祝国開堂を行ったのちに正式に黄檗宗開立となりました。その後も伽藍、寮舎、仏像の整備が行われ、幕府からの寺領(寺院に領地として付属する土地)の寄進も行われました。その翌年、萬福寺の住持を木庵性瑫という明の僧に譲って塔頭松隠堂に隠居します。交友のあった後水尾法皇や商人、大名らがこぞって隠元のもとに帰依しました。

隠元隆琦 晩年

1673年(寛文十三年)82歳を迎えた隠元は遂に死を予知し、生前整理、今でいうところの「終活」を始めました。その年の4月2日に後水尾法皇より大光晋照国師号を受け、翌3日、82歳で示寂しました。
隠元の遺骨は萬福寺の開山堂に収められており、その教えを引き継ぐ法嗣(ほうし)は23人いました。その中でも木庵性瑫と即非如一は隠元と共に隠木即と呼ばれ、彼らが遺した「唐様」の書は非常に有名です。
隠元の遺墨(遺した書の作品)の多くは萬福寺に所蔵されています。隠元が座右にして茶を喫したという朱泥の急須も萬福寺に伝来したもののひとつであり、寺の宝として大切に保管されています。
 

隠元隆琦 代表作

  • 「隠元隆琦像」自賛 ・額字原書「黄檗山」
  • 額字原書「萬福寺」
  • 額字原書「方丈」
  • 額字原書「遷仏場」
  • 禅堂対聯原書
  • 斎堂対聯原書
  • 黄檗十二景「法堂」
  • 黄檗十二景「五雲峰」
  • 「維摩・紅白梅図」狩野探幽筆/隠元題
  • 「雲龍図」狩野探幽筆/隠元題
  • 法運東行
  • 普門現端
  • 示衆法語
  • 黄檗山進山法語
  • 黄檗山開堂法語
  • 八秩自祝偈
  • 遺偈  ほか
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