笠井誠一の絵画を買い取ります
太く慎重に決められた輪郭線が横たわり、明るい色使い、計算されたフォルムに溶け込むサイン。
笠井誠一による単なる静物画と囚われることのない自由な描画は、和室、マンション、洋間、美術館や画廊の白壁のいずれにもよくなじむことでしょう。
笠井にとって静物画を描くとは「物と語らう」ことであり、静物という生けるものとの「対話」です。
性質の違うものを組み合わせることで面白い関係が生まれ、「静物」となるといいます。
まず自分の周辺に静物(もの)を置いて機が熟したら描いてみようと思うこと、画家・笠井誠一にとって複数のものをおいて「静物を組む」ということは
- 「あっちを見たりこっちを見たりとそれぞれに違う子供が何人か同じ場にいるようなこと」であり
- 「ものとふれ合うには、同じものでも見過ごしに画家が気が付ける状態になければうまくはいかない」
- うまくいかない面と向き合うことで、まだできることがあると思えるのだ」
という画家と静物との対峙において積み上げられた考えについて語っています。
笠井誠一は画家として自らが発見することをやめない姿勢や失敗しても取り組み続けることを重視する作家です。
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作品のお写真を添えてのお問い合わせ、お電話でのご相談をお待ちしております。
笠井誠一の静物画を買取ります
~笠井誠一が過ごした東京~
笠井は、太平洋戦争末期に北海道の中学で学徒動員を経験します。終戦を迎え、“お国のために死ぬ”という教育が民主主義に一転したことになじめずにいました。
不信感から「確かなもの」を求めるようになった笠井が導き出した答えは「洋画」であり、絵を描くことでした。
美術は笠井に合っていたことから、両親の賛成も得て昭和24年17歳で上京したといいます。
当時は36~7時間ものあいだ立ち続けで列車に乗ることは不思議なことではなかったそうです。笠井はその当時に美術を志した世代を、「焼け跡派」と称しました。
笠井誠一の画業について
戦前に抑制されていた絵、文学、芝居などが突如として開かれたという状況もあり林武、児島善三郎、東郷青児をはじめとする作家おのおのが最高の作品を残した時代であったと語っています。上野の東京都美術館は戦争で焼け残っていたため、当時の画学生にとっては数少ない良い環境でした。しかしながら笠井は、大学に入学して即座に勉学に身が入った訳ではなかったそうです。大学入学後4年目に、伊藤廉より師事したことがきっかけでデッサンなどを真面目に学ぶようになったことから絵を描くことはどういうことかを教わります。徐々に「海外で学ばねば」という思いが強くなりフランスにわたりました。パリ国立高等美術学校ではモーリス・ブリアンションに師事。
- 西洋絵画の古典的な技法や哲学
- 絵の具の研究
- 色彩と形をつくる、という深いアカデミズムの連なりに触れました。
笠井誠一の経歴
1932年 札幌市に生まれる
1957年 東京藝術大学美術学部油画科卒業
1959年 東京藝術大学美術学部油画専攻科修了
1959年 フランス政府給費留学生として渡仏しパリ国立高等美術学校入学。 モーリス・ブリアンションに師事
1961年 個展(パリ・サン・プラシッド画廊)
サロン・ドートンヌ出品作《椅子とヴァイオリン》フランス政府買上
1966年 帰国、東京に住む。新樹会第20回展出品(~`76最終展)
1967年 愛知県立芸術大学講師となり、愛知県長久手町に移住
1971年 第1回現代日本新人絵画展(髙島屋東京日本橋店、`72)
1972年 八王子にアトリエと住居を新築。愛知、東京往復生活を始める
1973年 第2回リュミエール展(髙島屋東京日本橋店、~第10回最終展)新樹会同人となる
1974年 黎の会を結成する
愛知県立芸術大学教授に就任する
1978年 滞欧作《丘上の村》東京藝術大学藝術資料館収蔵
1980年 文部省在外研究員として6ヶ月間フランスに滞在
1998年 愛知県立芸術大学を退官、名誉教授となる
2001年 第24回安田火災東郷青児美術館大賞受賞、同賞受賞記念「笠井誠一展」
2004年 髙島屋にて個展(大阪・東京日本橋・京都・横浜・名古屋)
2009年 稜の会(髙島屋東京日本橋店、`10年より東京日本橋/大阪/名古屋)
2011年 画集刊行記念展(泰明画廊)
2013年 個展(泰明画廊)
現在、立軌会同人、愛知県立芸術大学名誉教授
笠井誠一の作品買取ます
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