飯後の茶事
飯後の茶事は食事のあとに行う菓子だけの茶事で濃茶、薄茶とたてお菓子、場合によっては懐石を簡略化した点心と呼ばれるお弁当形式の軽食を頂くこともあるという会です。
茶法の古典書である『南方録』には、「是も不時会也、いとまなき人は、わび数寄の饗応をはぶきて、菓子にて可参と云、菓子にて一服可進といふたぐい也、案内有ての不時と心得べし」
訳「これも不時の会で、忙しい人はわび数寄の宴の応接を省いて、菓子にてかまわないといい、菓子にて一服を進めることが可能なたぐいである。案内があっての不時と心得るべきだ」と言及されています。基本的には客人は食事をすでに済ませたあとで来ているという前提で行われる会となっています。お勤めしていても集まりやすいアフターファイブに開くにはぴったりの茶事でしょう。
茶道筌蹄
『茶道筌蹄』(ちゃどうせんてい)文化十三年(1816)という稲垣休叟が著した全五巻の文献の第一巻のなかには飯後の茶事について(以下訳)「飯後、菓子茶ともいう。朝飯後は五ツ半時(午前七時から九時の間)昼飯後は九ツ半時(午後一時半ごろ)いずれも菓子の茶である。朝飯後は正午の茶会の邪魔にならぬように、昼飯後は夜咄の邪魔にならないようにすることが第一の客の心得である。もっぱら面白く仕える茶事の一つである。」 (以下原文)「飯後 菓子茶ともいふ 朝飯後は五ツ半時、昼飯後は九ツ半どき、いづれも菓子の茶也、朝飯後は正午の茶会の邪魔にならぬやう、昼飯後は夜ばなしの邪魔にならぬやうに、客の心得第一也」、『和泉草』に「菓子の茶湯は、不時之茶湯の又軽き物なり、常の茶之湯の格に替て、面白仕成専一也」とあります。
茶道望月集
『茶道望月集』は京都の紫雲山というところにある、くろ谷金戒光明寺の塔頭顕岑院に数多く伝えられている庸軒流の茶書です。
藤村庸軒(1613~99 ふじむらようけん)の孫弟子である風後庵又夢久保可季によって享保8年(1723)に成立した茶書であるこの書は風後庵又夢の師の鳩庵横井等甫から伝授された「庸軒流茶法」40巻・「七ヶ条極秘切紙」3巻の内容を盛り込み、庸軒流の茶法を詳しく記述した書となっています。茶道望月集には飯後の茶事のことがどう書かれているのか読み解いていきます。
茶道望月集 訳「朝飯の後でも夕飯の後でも菓子での茶事を催すとのことならば、朝飯後ならば、辰の刻(朝七時から九時)に支度をして辰の過ぎ(遅くとも九時過ぎには)路次に入るべし。朝も夕も、本式は吸い物と酒をさかづきに出し、そのあとで菓子を出し茶を点てること。もちろん炭は客座敷に入れて、追加することだ。床は必ず掛物と花とを両方飾ることだ。菓子の器などを取り込み、亭主はもはや御手洗にはおよぶまじきという心で、早く水指を持ち出して置きあう仕方もあり、客は夫共に一寸(少しだけ)手洗いに半ばで出ても良い。亭主もその様子ならば差し控えること。腰掛へ行き煙草を一服し、もはや後入の案内を受けるにも及ばず、大方座敷の支度ができているであろうタイミングを考え、手洗いを使って段々と茶室入りをすることである。また詫の席では吸い物と酒をなしに、菓子ばかりで点前してもかまわない。いずれも本式の茶事に対しては略式のことだ。炉も風炉も同じ心得と知ってよい」
茶道望月集 本文「朝飯後にても夕飯後にても、菓子にて茶事催との事ならば、朝飯後ならば、辰の刻支度して辰の過に路次入すべし、夕飯後ならば、未の刻夕飯の支度して、未の過に路次入すべし。朝にても夕にても、本式は吸物酒抔出し、其後菓子を出し茶を点る也、勿論炭は客座敷に入て、追附する事也。床は必掛物と花と両飾なる 事也。菓子の器等取込、亭主は最早御手洗には及間敷と云心にて、早水指を持出置合仕形もあり、客は夫共一寸手洗に出候半とて出る能、亭主も其様子ならば差控る事也。腰掛へ行て煙草一服宛呑、最早後入の案内を受るに不及、大方座敷の仕廻あらんと思ふ時分を考、手洗を遣ふて段々如常座入する事也。又侘は吸物酒 なしに、菓子計にてする事も可有也、何れも本式茶事に対しては略の事也、炉風炉共同じ心得と可知也。」
それぞれの茶法書にも、時間と進行が大まかに書いてあるもの、進行の仕方の一つ一つがていねいに書かれてあるものと様々です。
菓子の茶事
飯後の茶事は順番が入れ替わったり略されたりと、時によって主客の都合によって会の進行を自在に決めることができる茶事です。 菓子ばかりで薄茶を出すところから、菓子会や菓子の茶事とも呼ばれています。
菓子会 流れ
通常の炉の茶事ならば
- 初炭
- 小吸物
- 八寸
- 酒
- 菓子
- 中立
- 濃茶
- 薄茶
と続きます。
しかし菓子会、飯後の茶事は中立なしに床は諸飾とし
- 初炭
- 菓子
- 濃茶
- 薄茶
- 軽い点心
という場合や、濃茶の後で点心を出し薄茶を最後にするといった柔軟な仕方で会を進められます。