香道の歴史
今回は奈良から室町時代までの香道のあゆみを追っていきたいと思います。
日本の歴史で最初に香が発見されたのは日本書紀の中で仏教が伝来する538年から57年前の推古天皇三年(595年)に淡路島に沈香木が漂着したという記述がもっとも古い記録です。
- 『推古天皇の三年夏四月、沈水(香)淡路島に漂ひ着けり。其大き一囲、島人沈水を知らず、薪に交て竈に焼く、其煙気遠く薫る則異なりとして献る。』
(訳:推古天皇の三年夏四月、淡路島に沈水香が漂着した。
香木の価値を知らない島人が木を拾い、流木だと思って薪と一緒に燃やしてしまった。煙と共にとても良い香りが立ち上ったため、そこに居た摂政の聖徳太子は直ちにそれが香木であると理解した。香木は特別なものであるとして宮廷に献上された)という記述です。
香と日本史~香道のなりたち~
奈良時代には、鑑真和上により練香の製造方法が伝えられました。この時期の香は仏教と切り離せないものでした。鑑真和上は盲目の苦難の中、仏教の教えを日本列島に伝えるために6度も渡航の試みを経て日本へ渡りました。
鑑真和上は仏教に限らず薬草や漢方薬の使い方も伝えています。鑑真和上が伝えた練香は 香木、麝香、乳香、桂皮などの天然の香料の粉末を混ぜ合わせて丸めて熟成させたタイプの香でした。練香は希少な香木を直接切りだすよりも持ち運びに便利で初心者にも扱いやすく、わずかな水と共に器に入れて熱し「炊く」という方法で香りを聞きます。鑑真和上は練香を使って長旅の疲れを癒し、祈りと伝道に耐える精神力を深めていたかもしれません。
平安時代(749~1192年)の初期は、唐に学んだ唐文化が流行していました。その唐風の練香の調合について知っていて香料の調合ができるということが教養の証でした。香の調合は各自が少しずつブレンドを変化させ、その優劣や腕を比べる切磋琢磨の一種の競技のような営みとなりました。季節ごとに香料の種類と調合の配分が決まっており、出来上がった練香に詩を添えて贈り物にするということもよく行われていました。華やかさを競い切磋琢磨を積む国風文化の基盤はこのような活発な学びと楽しみ、負けん気によって蓄積されたものだったのです。贅をつくした平安の隆盛も衰退のときを過ぎた鎌倉時代(1192~1332年)には、禅の思想に基づいた写実的で質実剛健な文化を京都から離れた鎌倉の武士たちが形成していきます。香ばかりではなく、実際に鎌倉国宝館に行って仏像を見てみたり、休日の朝に早起きをして北鎌倉エリアのお寺で日曜座禅会への参加をしますと、じっくりと禅の教えやおつとめを堪能できることでしょう。いわの美術は鎌倉エリアへの出張買取を行っておりますので、お気軽にご相談ください。
南北朝(1333~1392年)と室町(1338~1573年) 時代は再び京都が政治や文化の中心地となります。このころは日照りや深刻な飢饉に苦しんでいた日本で、元々の生まれが都で富める階級の人々は富みを保ち、周辺の貧しい人々は商取の場や都の富を求めて都へ集まらねばならないという厳しい情勢の中で治安も悪化していました。「下剋上」をたくらむ荒っぽい世相もあり、芥川龍之介の小説「羅生門」に描かれた場面の空気感を思い出すとよくわかるように「もらえるものは何でも貰おう」という発想のもとで起きる窃盗や果し合い、追いはぎが相次ぎました。武士は鎌倉時代に培った富を元手に貴族と同等の力を持つようになります。武家の女性たちの小袖はだんだんと華やかなものに変わっていきました。足利義満が銀閣を建造し武士の権威と優越を示したのもこのころでした。香道は応仁の乱(1467~1477年)の後にようやく体系が成立します。命の刹那さや時の権力者の盛者必衰を目の当たりにした人々は、将軍の地位を息子に明け渡した足利義政の下に身を寄せ合いました。
香道の始まりと東山文化の興りにおいて重要な人物は足利義政です。義政が公家の後家流の祖であった三条西実隆(さんじょうにしさねたか 1455~1537年 )志野流の祖である武家の志野宗信(しのそうしん 1441~1522年 )らに命じて作法や聞香のルールを体系化し現在の香道の骨格となる基礎を創り上げました。義政のそばには、茶と古典文学に精通した村田珠光 (1422~1502年)もいました。実隆は右に出る者のいない学者で、宮中の香の集まりを取り仕切る役を務めていました。志野宗信は実隆から香を学び足利家に伝来していた香木の選定と「名香六十一種」の選定を手がけています。このころに「六国五味」(りっこくごみ)といって香りの種類を味覚の呼び方と重ねて分類する方法が考案されました。
義政が慈照寺に築いた「東求堂同仁斎」という茶室には 貴族、僧、町人、武士、芸人とあらゆる階層の人々がつどいました。右のイメージよりも、集まった人々の身なりや雰囲気は様々だったといいます。
乱世の世で、一時一時を精一杯生きようという人々の想いと創意工夫があったために今日の日本の伝統文化として親しまれている茶道、華道、香道、連歌、庭造り、日本の邦楽、そして日本人が持つ自然風土から美と教訓を見出すような思想の素地が培われたと考えられます。
「同仁」とは仏教と儒教の言葉である「一視同仁:あらゆるものはそれぞれ等しい価値を持つ」に由来して名づけられました。足利義政は、世俗を脱して無心となることこそが芸術を極めるうえで一番たいせつなことだというメッセージを同仁斎の集まりによって遺したのではないでしょうか。
道具の進歩と”香合”の開催
この頃に今でも使われている「雲母の板」の登場によって聞香の際の温度調整もできるようになり、香の香りの幅そのものが広がりました。そして一本の木ごとに命名された香木を持ち寄って、炷(た)き合わせるという催しが考案されました。東山の山荘で1478年の11月には6種の練香をたき合わせる会「六種薫物合」が開かれ、1479年には6種の香木を炷き合わせる会「六番香合」が催されています。1502年には志野宗信宅で10種類の香を炷き合わせる会「十番香合」が開催され、当時の文化人がこぞって参列しました。これらの十炷香(じしゅこう)香合せ、炷継香(しゅけいこう)がのちに香道の主流となる組香(くみこう)への流れを導きました。連歌の思惟の形式が炷継香の底流となっただけでなく中世以降の歌学により磨かれた美意識が礎となり、組香の素材である香木の美を鑑賞し評価する下地となりました。
鎌倉時代から室町時代の戦乱の合間に武将たちは茶と香を嗜み、心身の統一と精神の研鑽を計るための大切な習慣としました。一本の香木の賞味について組香や焚き比べといった香木の価値を最大限に生かす芸道を追求し、武士たちの好みや香道の心そのものが極められ洗練されていきました。
御家流・志野流~香道の流派いろいろ~
御家流は三条西実隆(さんじょうにしさねたか)を祖としており志野流は志野宗信(しのそうしん)を祖としています。香道にも様々な流派があり流派によって細かなことが違ってきます。中にはお茶とお香の両方を教えておられる先生もいらっしゃいますので、お茶と香の両方に興味がある方は、各流派の公式ホームページより問い合わせることで詳しい案内を頂けることでしょう。
- 米川流
- 風早流
- 古心流(柳原家)
- 泉山御流
- 香道翠風流
- 香道御家流 霽月会
- 香道直心流
- 香道御家流桂雪会
例えば志野流が詫びを意識した桑の道具を好んで使用し静けさと共に内面的な修練と深い理解につとめることに対し、後家流は蒔絵が多く華やかな道具を選び、やわらかい雰囲気や風雅な遊びからリラックスと古典の智慧を得るという気風があることなどが違いとして挙げられます。
どの流派においてもお教室を選ぶ際には、まずは稽古を体験して先生からお話を聞き、先ゆく仲間となる生徒さんの様子を見て自分が続けられる雰囲気があるかどうか、お月謝・通いやすさをみて決めていくと良いでしょう。サークルで香道部を営んでいる大学もわずかにあるので、学生の皆様であればそうした場を当たることも良い方法かもしれません。香道は、知る人ぞ知る習い事として細く長く続いてきました。心に落ち着きをもたらす体験を、一度はしたいものですね。
香道具の買取はいわの美術へ
いわの美術では香道に使う香道具について、オンライン査定と買取を行っております。共箱と箱書きのついた香炉や香合、枚数の欠けがない十種香札、伽羅や寸聞多羅といった希少な香の原木、こわれていない電気香炉などは買取を望める場合があります。家族が香の先生をしておられたお客様や香道の香木や香道具が在庫になっているという会社様からのお問い合わせにも対応しており、ていねいなお返事を心がけております。査定は無料です。香道の道具は一つ一つが細かくデリケートです。お電話口での説明だけでは難しいこともある分野と考えられますので、数と品目を把握してからメール査定の「お問い合わせ」にご記入のうえ、品物を何も置いていないテーブルの上でならべた様子の写真を2枚ほど添付下さいませ。