呉器茶碗
呉器はもともと禅寺で供え物を備えるために用いる、根来塗という塗りで作られた漆の器に似せた形のため「御器」「五器」とも表記されます。
大徳寺五器
高麗茶碗の一種。五器の一種であり、大井戸茶碗に似た重厚な風格を持ちます。
大徳寺五器の特徴
胴はゆるやかに立ち上がり、わずかにロクロの目が遺ります。見込みは深く、その底には渦状の茶だまりが付けられています。高台は低めでおとなしく、高台内は滑らかに削り込まれ兎巾高台となっています。
片薄高台の「畳付き」と呼ばれる高台の底のフチの場所である畳との接地面には、細く面取りベラがめぐっています。釉薬は高台内まで掛けられ、暗い琵琶色です。内側外側共に、暗褐色のにじみが薄く淡く生じており、これは全部の面に散在する小さな気泡孔から次第ににじんだものと考えられ、味を出しています。高台のわきには、量産品には見られない指の跡が遺されています。1700年代の高麗の陶工は釉薬をかけた土を焼いた際に表れる、人の意図を超えた自然現象を焼き物の意匠のなかに遺しています。
大徳寺五器・呉器茶碗の来歴
大徳寺五器はもともと京都の矢倉家に伝来し、江戸時代・寛政(1789~1801年)の時に 松江藩七代藩主であった松平不昧が所持しました。いわの美術の茶道具のお茶碗査定でも大切なポイントとなる共箱の蓋表に書かれた『大徳寺 呉器』という書付は『大円庵茶会記』にも濃茶用の茶碗として用いたと書きのこされています。墨掻合塗(塗り物の一種・黒い漆の掻き合わせ塗り)の内箱の蓋表には「大徳寺五器 茶宛」と朱色の漆で書かれています。このように箱が二重になっていて、内の共箱の箱書きが守られている茶道具はおおいに大切にされてきた道具と見て取ることができ、買取り成立の可能性もあがってきます。大徳寺五器は、『大正名器鑑』という文献のなかでは筆者不詳とされていますが、田山方南という墨跡研究の第一人者であった禅僧は、「この茶碗の箱書きを記したのは大徳寺二百七十三世大心義統の筆である」と示し遺しています。呉器茶碗は第二次世界大戦後、松平家を出て他の者に所有されたのち、各地の美術館が収蔵しました。主に茶道具を所蔵している美術館では呉器茶碗を見られる確率も高い事でしょう。
碗と椀
『椀、碗』は、曲がった線を持つ丸い食器である「おわん」を指す言葉です。
それぞれ木へんの「椀」は塗り物を意味し、石へんの「碗」は磁器の茶碗を意味するのですが、土の焼き物の場合では箱書きに「宛 」と書かれていることがあるようです。
『椀、碗』は常用漢字からは外れているものの、骨董のお茶碗や懐石道具の箱書きにはよく使われる文字となっています。ご家族が遺された古い物は詳しい事がわからないケースが多いものですが、箱の蓋の表の文字から内容の察しが付けば、品物の確認で箱を開けて頂くためのきっかけとすることができ、お問い合わせもスムーズに進めることができます。
田山方南
田山方南(1903~1980)は 三重県生まれ、三重県阿山郡の万像寺住職、川合松吟の長男として生まれました。田山方南は自身でも掛け軸を残しておりますので、肉筆の共箱ありならば買取できる可能性がございます。
1929年文部省宗教局国宝鑑査官補として国宝の調査指定に従事したことがキャリアの始まりとなり、1945年には国史編修官兼国宝鑑査官を務めます。
終戦後は、国立博物館調査課、文化財保護委員会美術工芸課に属し、文化財の調査官(書跡部門)から主任文化財調査官を続けてつとめ日本の墨跡研究の第一人者として1965年に定年退職するまで古文書・典籍・古写経・墨蹟など、書跡に関する国指定の調査に尽力しました。
文化財保護委員会の主任文化財調査官を退官した後は文化財専門審議会委員、文化庁の文化財保護審議会所属第一専門調査会書跡部会長、神奈川県小田原市の財団法人松永記念館館長、財団法人博物館明治村理事など、日本の文化を支える多くの重役に就きました。専門とした禅林墨跡研究のほか、陽明文庫・大東急記念文庫等をはじめとするコレクションの分類と整理にあたり、多くの解題(古い書物の解説)を執筆しています。寺院に関する古文書・聖教・一切経等の調査の仕事も膨大な量に及んでおり、「日本での書跡・典籍・古文書類の保存に関する功績はきわめて大きい」と評されています。(参考: 『日本美術年鑑』昭和57年版(289頁) 東京文化財研究所HP)
田山方南の主著
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『禅林墨跡』(聚楽社1955年)
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『続禅林墨蹟』(聚楽社1965年)
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『禅林墨蹟拾遺』(禅林墨蹟刊行会)