室町時代の鎧
南北朝の動乱を経て、室町幕府が成立したのが、足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破った1336年です。
この時代には戦闘方法がそれまでの騎馬戦から徒歩戦に移行し、これに伴い大鎧は次第に実戦には不向きなものとされ、室町時代後期には大鎧は合戦の実戦用としてではなく、象徴的存在になっていきました。
その一方で下級武士用の鎧であった腹巻が、胴丸に兜や籠手、袖、臑当てを加えて用いられるようになりました。
室町時代は鎧の製作技法も腹巻を中心に簡素化される一方で、実戦用として減少してきた大鎧は、華やかな色使いの装飾性の高い褄取縅(つまどりおどし)が流行するなど、鎧の二極化が進みました。
室町時代の鎧~大鎧
室町時代の前の南北朝の頃には、一騎打ちの戦いが少なくなり、集団戦が多くなってきたため、着用時の動きやすさを考えて、鎧は胴の腰部分を窄め、さらに腰に上帯を強く締め、鎧の重量をできるだけ腰で支えるようにして、肩への負担が減らされるような工夫が一層顕著になりました。
また、徒歩戦が増えたことにより、鎧の丈が短くなり、露出の大きくなった太股を守るため佩楯(はいだて)なども生れました。
室町時代の大鎧は、部分的に改良が進められましたが、家柄や格式を示すための象徴的なものとなりました。 さらに室町時代となると、何色かの色絲を用いた褄取縅は、袖の上に段または中二段の絲の色を変えた威し方も用いられました。
室町時代の鎧~胴丸
南北朝時代・室町時代の胴丸は馬上戦、徒歩戦の両方に対応し上級武士も胴丸を使用することが多くなりました。
また肩を防御する杏葉は、やや小さくなり肩上の先に結び付けるようになり、大鎧についていた脇坂は、胴丸にはそれまで、ついていませんでしたが、室町時代には胴丸にも就くようになり、定着化しました。
室町時代の胴丸の胴は、さらに腰が窄まった形となり、前胴の下半分の小札かしらの並びが胴の中央でやや高い曲線となりました。
室町時代の鎧~腹巻
腹巻は、背中から体を入れて引き合わせる形式の鎧で、古くは下級武者用の鎧です。前胴だけを防御する簡素な鎧が腹巻で、現在の剣道の防具と類似したものです。
腹巻は、胴丸よりもさらに軽量なものですが、室町時代から戦国時代にかけては、総大将級の上級武者も腹巻を着用することが一般化していきました。
兜、頬当、袖、籠手、臑当、佩楯などが完備し、重武装化が進みました。また、南北朝時代に太股部分の防御と機動性を増すため、草摺を五間から七間へ増やした腹巻がつくられはじめ、室町時代には定着しました。
さらに、腹巻の特徴である背中で引き合わせ部分を防御する背板が室町時代には生まれ、大鎧と同様に背板に総角付の鐶(あげまきつきのかん)を取り付けて、袖の緒などに結び付けるようになりました。
室町時代の腹巻の元となったものが鎌倉時代に生まれた最も簡略化された鎧といわれる「腹当」ですが、現存する最古の腹当は、室町時代後期のものとみられる緋絲素懸威腹当(長崎 松浦史料博物館蔵)で、これは松浦家の祖が室町幕府六代将軍・足利義教から拝領したという伝来があります。足利将軍家からの下賜品であるだけに、胸板と脇板は紅地に草花の金襴で包んだ華麗な装いで、実戦用の鎧ではなく、高位の武士が不意の危険から身を守るために、衣服の下に着用した護身用防具と推察されます。