香水瓶~COTY コティ
1908年、フランス パリ・ヴァンドーム広場に立ち上げられた天下のグラン・パルファン COTY(コティ)。コティの創業者フランシス・コティは、20世紀の香水の製造・販売において類まれなる商才と先見性、そして行動力を兼ね備えた革新者として知られます。
香水業界に革新を巻き起こしたコティは、魅惑的に装飾された香水瓶の製作と宣伝に力を入れた最初の人物であり、また成功者でもあります。
宝飾家としてカルティエなど一流宝飾店からデザインの依頼を受けていたアール・ヌーボー・アール・デコの代表的芸術家ルネ・ラリックとの提携で、香水瓶の歴史をつくり上げたことでも知られます。
コティの歴史
フランソワ・コティ(1875-1934)は、ナポレオンの生誕の地としても知られる地中海のコルシカ島で生まれました。
最初、コティはパリで政治家の秘書をしていましたが、すぐに服飾品の販売員に転職します。
結婚の後、植物のエッセンシャルオイル製造で最も大きい会社のひとつであったクリスカンパニーに努めるようになり、ここで香水の製造について学ぶことに専念し、生涯、香水製造の仕事に携わることを決意します。
コティは、自宅で香水の事業を始め、初めてつくった香水がラ・ローズ・ジャックミノー(真紅の薔薇)でした。
コティは、パリの様々な店やデパートなどに、その香水を販売してもらおうと試みましたが、再三商談しにいったにもかかわらず断られ続けました。そこで、コティはラ・ローズ・ジャックミノーの瓶を床にわざと落として、その香りを店内に拡散させます。
その香りを嗅いだ客は、ラ・ローズ・ジャックミノーを買い求めることとなり、あっという間にコティは成功を収めたという逸話が残されています。
この成功により、コティは展示室、工場、包装分の全てを一つの場所にまとめ、1913年までには、花畑からガラス瓶工場まで、香水製造をひとつのラインで完結する会社をつくり上げ、フランス国内のみならず、海外輸出においても成功を収めました。
1914年までには化粧品販売も始め、中でも1日に3万個も販売されたロリガンという香水と、その同じ名前のパウダーは、コティの製品の中でも最も売れたヒット商品となりました。
最初の香水ラ・ローズ・ジャックミノーからはじまったコティの香水事業は、僅か2ヶ月で彼を大金持ちにし、1920年代には巨額の富を得て、世界で最も裕福な人物の一人となりました。
コティとラリック
1908年、パリのヴァンドーム広場23番地に店を構えたコティですが、幸いにも、そこは既に宝飾作品で名声を得ていたルネ・ラリックの店と、同じ通りに面していました。
ラリックは、当時アール・ヌーボー様式の宝飾品で確固たる地位を築いていましたが、宝飾デザイナーとしての自身に限界を感じており、次なる道を模索していた時期であったといいます。
コティは“香水は香りだけでなく、目も惹きつけるものであるべきである“という考えを持っており、すぐにラリックに香水瓶のラベルのデザインを依頼します。
ラリックのデザインによる、ビーナス誕生のシーンが金のラベルに描かれた香水が発表されると、たちまち評判となりました。それは、すぐにガラスの薄い板に型押しされ、ガラス製のラベルがつくられ、それがバカラ製の香水瓶に貼られて販売されました。
バカラの瓶にラリックの金のラベル、スイカズラの花の精、ビーナス誕生のシーンが描かれた香水瓶は、ラリックにとっても宝飾デザイナーから、ガラス工芸作への道へと転身するきっかけになった究極の作品となったのです。
コティのその後
コティは、1960年代から製薬メーカー・ファイザーの傘下に入り、1990年代前半には再び独立しました。こうした経緯から、現在コティの本社機能フランスではなく、アメリカ・ニューヨークになっています。しかし、コティが香水を基軸としたフレグランス、コスメ、スキンケアを取り扱う世界的ブランドであることは今も変わらず、近年では自社ブランドだけでなく、多くのファッションブランドにフレグランスなどを供給しています。また、ビクトリア・ベッカム、ジェニファー・ロペス、ビヨンセ、ケイト・モスなどのセレブの香水の制作会社としても、その存在感をはなっています。