北川民次の絵画のお買取り致します!
北川民次は民治らしいといわれるほど特徴的な絵を描くことで有名な日本の画家です。
アメリカやメキシコで絵の勉強をし、児童美術教育にいち早く取り掛かった教育者でもあります。ほとんどをメキシコの地で過ごし、日本へ戻ってからも北川が描いたモチーフはメキシコの風景や人々でした。
そんな北川は海外で高く評価されており、近年日本でもその評価が見直され愛好家が増えています。北川民次の作品の処分をお考えのお客様がいらっしゃいましたら弊社までご連絡ください。
略歴
絵画への目覚めと旅立ち
北川民次は、1897年静岡県で製茶業を営む両親のもとに生まれました。
生家は日本茶をアメリカにも輸出していたため、北川にとって海外の存在は身近だったのかもしれません。早稲田大学を中退した北川はアメリカに渡り、ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する仕事をしながらアート・ステューデンツ・リーグに入学ました。
ここで基礎を固め、1921年になるとアメリカ南部からキューバへ、さらに旅を続け最終的にメキシコの地へ辿り着きます。
しかし、当時のメキシコは1910年から始まった国を二分する大きな内戦であったメキシコ革命の戦禍が衰えてはいませんでした。
そんな中、聖画行商人として本格的に画家としての活動を始め、サンカルロス美術学校に入学しメキシコの旧僧院で研修する画学生の一員として野外美術学校の運動に参加し児童美術教育に取り組むこととなります。この時期に版画を始め、表現の幅を広げていきました。
このときメキシコ旅行中の藤田嗣治と出会い、1936年に野外美術学校を一時的に閉校し日本へ帰国した後は藤田の紹介で二科展へメキシコの風景や人物をモチーフとした作品を複数点出品し会員に推薦されることとなりました。児童美術教育の指導をしながら自らの制作も進め独自の作風への足掛かりを築いており、その独創性が評価されたのです。
北川民次らしさを確立
これを機に二科展の他にも様々な展示会に作品を出品し続けていましたが第二次世界大戦が勃発したため愛知県の瀬戸に移り住み瀬戸の人々の暮らしに魅了された喜多川はここに定住することとなります。作品にも瀬戸の人々は頻繁に描かれており、この時期から北川らしいといわれる生命感溢れるダイナミックな作風が確立されました。
日本帰国後から精力的な作品作りをしており戦後しばらくまでの北川の作品群の特徴は、青灰色の色調が目立つため「灰色の時代」と名付けられていますが1960年代に入ると一変して原色を用いた明るい作風へと展開していきました。
また、当時北川の作風は西洋絵画の影響の強かった日本画壇では珍しメキシコ派ともよばれており異彩を放っていました。
題材に時事問題を取り入れた作品も多く晩年にはエッチング作品のほか水墨画も多く残しています。1978年に二科会会長だった青木青児の後後任へ就任したものの5ヶ月後に「残る人生は、ただ描くために」と会長職を辞任し二科会も脱退しました。以後の制作は穏やかで、アクリル画を十点ほど制作し1989年に97歳でこの世を去っています。
作風とモチーフ
北川作品のモチーフは、民衆、労働者、瀬戸の街並み、工場、母子、花、バッタ、風景と幅広いですが富士山や舞子など華々しい題材を選ぶことはなかったようです。民衆の生活に関心を寄せ社会的、政治的題材を風刺を交え人間味溢れるタッチで描きメキシコや欧米で高く評価されていました。
詳細を簡略化しデフォルメしたモチーフを初期では力強く太い輪郭線で縁取り存在感ありインパクトを与える作風で描いていたのに対し、後期の作品ではキュビズム的表現が多く見られ、繊細な輪郭線で柔らかく温かみのある作風で描いていることが特徴的です。
北川民次の絵画の買取について
北川は油彩画、版画(木版、銅板、エッチング、リトグラフ)、アクリル画、水墨画、壁画、陶器への絵付けなど様々な技法で描いてきました。
中でも二次市場での評価が高いものは油彩画で、動植物がモチーフとなっている作品は人気が高いのでお買取り価格も高額が期待できます。
査定はお品物の状態やモチーフや時価によっても前後いたしますのでお問い合わせの際は、お手持ちのお品物のお写真と、作家名・作品名・モチーフ・大きさ・状態・エディションナンバーなどわかる範囲でお品物の詳細をお伝えください。
弊社HPのお問い合わせフォームからご連絡いただけますので、お電話、メール、LINEなどご都合のよろしい方法でご一報いただければ専門の査定員がお品物を見させて頂きます。
北川民次の絵画のご売却をお考えの方がいらっしゃいましたらいわの美術までご連絡ください。
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