荻須高徳のリトグラフのお買取り強化中!
現在いわの美術では萩須高徳のリトグラフのお買取りを強化致しております。
荻須は半生に渡りパリの街並を描き、フランスで最も知られる日本人画家の一人です。
特に佐伯祐三の影響を強く受けていた1930年代の作品が人気のお品物であり、高額でのお買取りが期待できるお品物です。
荻須は油彩画でも作品を制作しており、こちらも高額買取の対象のお品物となります。
大変人気な作家ですので、お手持ちの絵画の中に荻須の作品がないかご確認くださいませ。
絵画の他にも骨董品・美術品のご処分をお考えでしたら高価買取に力を入れている いわの美術 にご相談ください!
荻須高徳とは
<…荻須高徳の略歴…>
荻須高徳(おぎすたかのり)は1901年に愛知県中島郡(現・稲沢市)の地主の子として生まれました。
画家を志し1921年に上京すると小石川(現・文京区)にあった川端画学校へ入り藤島武二に師事します。ここで基礎を築いた荻須は1921年に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋学科に入学し本格的に絵を学びました。
1927年卒業した荻須は、かねてより親交のあった佐伯祐三からの誘いを受けフランスへ留学し才能を開花させていきます。
佐伯と共にパリの街角の制作に励んだこの頃の作品からはユトリロやヴラマンクなどフォーヴィズムの巨匠に大きな影響を受けた様子がうかがえます。
1928年にフランスサロンでも屈指の難関サロンであるサロン・ドートンヌに入選し、その名が広く知られることとなりました。
その後もサロン・ドートンヌやアンデパンダン展とも呼ばれるサロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンへの出品を続けると共に1931年にパリ、ジュネーヴ、ミラノで個展を開催するなど精力的な活動を展開していました。
1934年頃からは自らの作風を確立し、1936年サロン・ドートンヌ会員となった荻須の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府の買い上げとなり、翌年1937年には「街角」をパリ市が買い上げるなど大きな話題となりました。
1940年に第二次世界大戦のため一時帰国し、終戦後の1948年にはいち早くフランスへと戻り創作活動を再開しました。
誰よりもパリの街を愛しその風景を描き続けた荻須の作品はパリの市民に広く受け入れられており、1956年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章しています。
さらにこれまでの功績が認めらた荻須は1972年には勲三等旭日章を、1974年にはパリ市より、メダイユ・ド・ヴェルメイユを授与されました。
また、日仏の文化交流にも大きく寄与した荻須は1981年に文化功労者に選出されており、顕彰式のため10年ぶりに日本へ帰国しましたが、その後は故国の土を踏むことなく死去するまでフランスでの活動を行いました。
没後は生前の功績が認められ文化勲章が追贈されています。
<…荻須高徳の作風…>
荻原高徳はパリの歴史ある建物や石畳の道など人々の生活と密接に関係した風景を描き続け、世界で高い評価を受ける作家です。
1928年頃からサインを「OGUISS」としており、このサインの有無で作品の評価は大きく変化します。
また、多くの作家は晩年になるにつれ評価が上がり、市場での価格も高騰していきますが荻原の場合は1930年頃に描かれた作品が人気があり1930年代の作品は高額でのお買取りが期待できます。
この頃の荻原の作品は佐伯祐三の影響を特に受けており、2枚の作品を並べると非常に似通っていることがわかります。
やや荒々しい筆致で描かれたスピード感溢れる作風は佐伯の死をきっかけに徐々に変化していき、1934年頃にはしっとりとした色彩で静寂な空気を湛えた作風へと落ち着きました。
初期作品は暗く緊張感のあるトーンで描かれた作品が多いですが、晩年になるにつれて明るい色味が増してゆきます。
そして荻原の作品には人物がほとんど登場することはなく、活気のある市場よりも長い歴史を感じる建物や雨露に濡れた閑散とした路地を好んで描きました。
しかし、作品には不思議と人々の営みを感じるような生活感が漂ってることも特徴の一つです。
荻須高徳のリトグラフのお買取りについて
現在いわの美術では荻野高徳のリトグラフのお買取りを強化致しております!
絵画以外にも弊社では幅広くお取り扱い致しておりますので、ご不要になられたお品物がございましたらぜひ一度ご連絡下さい。
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