曲亭馬琴
江戸時代徳川将軍家に仕える武士の御用人であった両親のもとに五男として1767年に生まれ、本名は滝沢興邦という名です。
子供の頃から絵草紙と呼ばれる現代の絵本のような物を気に入って呼んでいて、7歳になると絵本を読んでいた事から文字が読めるようになり、俳句の最初の1句を詠めるようになりました。
生まれた時は五男でしたが、兄が二人早くに亡くなってしまった為、実際には三男として育てられ、父親・母親・長男・次男・妹二人と仲睦まじく暮らしていました。
ですが、曲亭馬琴が9歳の頃父親が亡くなり、長男が家長を継いだものの仕えていた主君からお給料を半分に減らされた事に腹を立て、三男の曲亭馬琴に家長を任せ母と妹を連れ出て行ってしまうのです。
次男は長男が出ていくよりも前に他の家に養子に出されていたため、曲亭馬琴は一人ぼっちになってしまいます。
家族が居なくなった後、曲亭馬琴は主君の孫のお世話係として仕えますが、怒りっぽい性格に耐え切れず14歳で長男達の元に向かいました。
家を出た翌年、成人の儀式を行った曲亭馬琴は左七郎興邦と名乗り長男と共に俳人である越谷吾山に師事し、俳句を作るようになります。
その後、長男の勧めでその当時仕えていた家の徒士になるも高慢な性格故長続きせず、様々な武士の家を渡り歩き奉仕する日々で、母親が危篤の際には所在が分からず探し回られたそうです。
24歳で浮世絵師兼戯作者の山東京伝の元を訪れ、弟子入りは断られますが、足しげく通い山東京伝の作品を見ながら自身も戯作や浮世絵を製作し、その当時江戸で流行っていた壬生狂言を元に京伝門人大栄山人という名で「尽用而二分狂言」という本を出版し戯作者としての人生がスタートします。
戯作者としての人生
本格的に戯作者として活動し出した曲亭馬琴は、江戸中期から江戸後期に歌人・書家として活躍した加藤千蔭に弟子入りし書を学び、30歳で執筆活動も始め、同年出版された「高尾船字文」という本は曲亭馬琴の出世作品となります。
1803年には「俳諧歳時記」という2600余の季語を収集・分解して解説した本を出版し、季語集を歳時記と称した最初の例とも言われています。
また、曲亭馬琴の代表作でもある「南総里見八犬伝」は、執筆期間28年という歳月を費やした大作となっています。
数多くの作品を作り上げてきた曲亭馬琴は58歳で隠居し、江戸時代の執筆家である山崎美成とともに1824年から1年間文人を集め珍談や奇談などを話し合う会を設けながら、ゆっくりではありますが、執筆作業も行っていました。
ですが、67歳になると両目の違和感を覚えはじめ、73歳になると両目とも失明してしまいます。
執筆家として命とも言われる目が見えなくなる事は曲亭馬琴にとって災難ではありましたが、それでも作品制作を続けたいと息子の妻に頼み口述筆記で執筆していました。
口述筆記になってからも命ある限り様々な作品の執筆を続けましたが、82歳で惜しまれつつこの世を去りました。
曲亭馬琴の作品買取について
曲亭馬琴の作品では、古書や掛軸などがございます。
また、長い年月をかけて製作された「南総里見八犬伝」などは中古市場でも高評価を得ていて、全巻揃っていますと高価買取が期待されます。
掛軸なども、美人画や俳句など多数描かれていますので、木箱付の直筆作品ですと高価買取が期待されます。
ですが、曲亭馬琴が執筆活動を本格的に行っていた時代から200年以上経ちますので、残っているお品物の状態も懸念されます。
掛軸や古書などは紙ですので、大事に保管されていても虫に食われていたり、シミやカビが発生してしまう可能性もございます。
とても良いお品物でも、状態があまりに酷い場合は評価が下がってしまいますので、曲亭馬琴の作品が出てきた際には、中身を確認して頂き状態が良ければそのままお売りになる事をオススメ致します。
弊社いわの美術では、曲亭馬琴の作品をお買取りしております。
こちらのお品物では、直筆か模造品かによってかなり査定額に差が生まれます。
お電話だけの情報では判断が難しい為、オンライン査定やLINE査定からお問い合わせ頂く事をオススメ致します。
また、曲亭馬琴の作品以外にも様々なお品物をお買取りしております。
高価買取可能な掛軸
沈尹黙・葛飾北斎・虚谷・千利休・富岡鉄斎・一休宗純・大田垣蓮月・立原杏所
渡辺省亭・柳田樵谷・木庵性瑫・隠元隆琦・円山応挙・徐悲鴻などなど
買取可能なお品物
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