弊社いわの美術では、明治から大正にかけて活躍された日本画家、渡辺省亭の作品をお買取り致します。
1852年に江戸の神田佐久間町に生まれた渡辺省亭は
8歳で父親が亡くなり兄に養われるようになります。
その後渡辺省亭は12歳になると質屋へ奉仕に出されますが、そこで絵ばかり描いていたそうです。
普通なら働いている時に絵を描いていたら怒られるのですが、その絵は子供が描くとは思えない程上手かった事で質屋の主人が両親の元へ渡辺省亭を返し、「この子は画家になった方がいい」と説得しに来たほどだそうです。
その言葉を受け、渡辺省亭は16歳で漆工家の柴田是真の弟子入りを試みますが、渡辺省亭の絵を見た柴田是真は、「私ではない方がいい」と絵師の菊池容斎を紹介され、そこで弟子入りとなりました。
菊池容斎の元に弟子入りしたものの、その指導はとても厳しく弟子入りから3年は絵筆を握らせてもらえず書の見本を見ながら習字ばかり書き、逆に絵筆を持てるようになると絵を教えてもらう訳でもなく自身で見た自然などを自分なりの描き方で描けと放任主義になりました。
この厳しい修行で多くの弟子達は辞めていきましたが、渡辺省亭はなんとか踏みとどまり渡辺省亭の元で修業を終え、独立を果たします。
独立後の活躍
23歳の頃、美術工芸品輸出業者の松尾儀助に絵の才能を見出された渡辺省亭は、輸出用陶器を扱っていた起立工商会社に就職し、七宝家の濤川惣助の七宝工芸図案を描いた事で評価を得て、以降様々な図案や下絵を描くようになります。
その後、1877年に行われた第一回内国勧業博覧会で出品した金髹図案で花紋賞牌を受賞、さらにパリ万国博覧会で出品した工芸図案が銅牌を受賞した功績が称えられ、日本画家としてパリへの渡仏が許可されました。
パリ滞在中には、華麗な筆さばきを披露しフランスの印象派画家として有名なエドガー・ドガをも渡辺省亭の作品に魅了されたそうです。
帰国後も渡辺省亭の作品に対する情熱は衰える事を知らず、花鳥画など様々な作品を描き展覧会や博覧会などで数多くの受賞を果たします。
肉筆作品以外でも、木版画や口絵・挿絵でも才能を発揮し、初めての挿絵は小説家・坪内逍遥が劇作家シェイクスピアの執筆した小説「ジュリアス・シーザー」を翻訳した「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」という作品です。
その後、1889年に小説家・山田美妙が執筆した「蝴蝶」という小説に裸婦の挿絵を描きましたが、この挿絵がキッカケで裸体画論争を引き起こしてしまいます。
晩年の渡辺省亭は、弟子も取らず一匹狼状態で亡くなる68歳まで作品を描き続けました。
渡辺省亭の作品について
渡辺省亭の作品は、海外の画家が驚愕する程優れた写実性で描かれています。
また、作品に添えられる文字もとても切れ味の良い字も高く評価されています。
渡辺省亭の作品がここまで評価されたのは、もちろん渡辺省亭自身の才能でもありますが、それに加え師である菊池容斎の影響が大きいとされます。
菊池容斎の指導は上記でもお話ししましたが、弟子入りから3年は絵筆を持たせず、絵筆も持てるようになったとしても、誰かの作品を見ながら描くのではなく、自分で見た物を描くという指導方針です。
「絵は誰かの真似をして描くものではない」「自然を手本にし、誰かに頼るな」という教えを忠実に守った結果、渡辺省亭の字の綺麗さや、写実性が上がり素晴らしい作品を多数描くようになりました。
また、優れたデッサン力と描写力は当時数多くいた日本画家の中でも群を抜いていて、対象物の細かい色の濃薄もとても美しく再現されています。
弊社いわの美術では、渡辺省亭の作品をお買取り強化しております。
渡辺省亭は挿絵や掛軸など多数の作品を描いてきましたが、その中でも肉筆の掛軸などは作風にもよりますが、高評価でのお買取りが可能です。
先代から受け継がれてきた物や、蔵の中から出てきた物、ご自宅に飾られていた渡辺省亭の掛軸がございましたら、是非いわの美術までお気軽にご相談下さい。
また、渡辺省亭の作品かわからない場合は、弊社HPのオンライン査定やLINE査定から画像を頂ければお調べが可能です。
その際、作品全体・サイン部分のアップ・箱書の画像をお送り下さい。
また、掛軸の入っている箱に作者名が書かれていますと、そちらは作品の保証書代わりとなり大変重要な物です。
虫が食っている・箱がボロボロ・少し破損があるなどの理由で処分は絶対にしないで下さい。
その箱があるかどうかで査定額が変わりますのでお願い致します。
買取可能な掛軸
菊池容斎・鄭善禧・横山大観・曾我蕭白・葛飾北斎・宋文治・尾形光琳
伊藤若冲・富岡鉄斎・雪舟等楊・酒井抱一・河鍋暁斎・円山応挙などなど