栃木県佐野市富岡町で1918年に田村耕一は生まれました。
高校卒業後は、東京美術学校へ入学し工芸家図案部へと進みます。
23歳で東京美術学校卒業後大阪にある高校でデザインの教師として指導しながら、自身は楽焼を学び忙しくも充実した日々を送っていましたが、翌年戦争が始まると軍隊へ入り戦場に駆り出されました。
戦後、戦前学び途中であった陶芸を学ぶべく京都にある松風工業株式会社松風研究所へ入所し本格的に陶芸を始めます。
松風工業株式会社松風研究所では、陶器のデザインを手がけながら自身も陶芸製作を学んでいたところ、松風研究所顧問の富本憲吉から直接指導を受けた事で自身の創作の考えなどが変わるキッカケとなり、田村耕一は富本憲吉を師事し生涯の師と仰ぎました。
故郷へ帰国後の活躍
30歳で地元の栃木県佐野市に帰ってきた田村耕一は、作陶を行いながら赤見窯の築窯に加わり、同年行われた栃木県芸術祭に自身の作品を出品し芸術祭賞を受賞します。
その際芸術祭の審査委員だった浜田庄司に自身の製作した作品が認められた事から、自信がつきより一層作陶に励むようになりました。
翌年は生涯の師と仰ぐ富本憲吉が中心となり発足した新匠美術工芸会の第三回展に作品を出品し、故郷である栃木県佐野市に倒焔式の薪窯を製作し作陶を続けます。
作陶製作をしていたある日、栃木県芸術祭で審査委員を務めた浜田庄司と会い、彼の勧めで栃木県窯業指導所の技官となり後世の育成に励みました。
その後、1956年と1958年に現代日本陶芸展で朝日賞を受賞、1957年には日本陶磁器協会賞、1960年と1961年には日本伝統工芸展で奨励賞を受賞、同年田村耕一の作品を文化財保護委員会と東京近代美術館、京都近代美術館に買い上げされています。
これらの功績が認められ、1962年には第九回日本伝統工芸展の監査委員を初めて務め、以降日本伝統工芸展の監査委員と審査員、朝日陶芸展と日中陶芸展の審査員も務めるなど功績を残し、また鉄絵技法の開発にも成功しました。
1967年トルコで開催されたトルコ・イスタンブール国際展に出品し金賞を受賞するなど日本のみならず世界的にも活躍するようになった田村耕一は、同年東京芸術大学の助教授に任命され、その十年後には教授となり後世の指導にも力を注ぎます。
1986年鉄絵の技法で人間国宝となり、その後の活躍が期待されましたが、68歳という若さでこの世を去りました。
鉄絵とは
田村耕一が得意とする鉄絵とは、鉄分を含む顔料を用いて文様を描く技法の事です。
鉄絵の原料は主に黄土(おうど)・鬼板(おにいた)・黒浜(くろはま)・ベンガラ・水打ちで、これらは広い地域で産出されており入手しやすく昔から陶芸の絵付けに多く利用されてきました。
中国では磁器の製作が始まった新石器時代頃から使われていて、その後朝鮮・ベトナム・タイ、そして日本に伝わります。
鉄絵は、顔料に含まれる鉄分の配合量と焼く時の炎の性質により色合いが黒色、茶褐色、黄褐色などに変わり多種多様な色合いが表現出来るのです。
田村耕一は、初め黒色と黄褐色の二種類の釉薬を用いて蝋抜きと呼ばれる蝋が釉薬をはじく性質を利用した技法や、筒描きと呼ばれる筒状の中に釉薬を入れ模様を描く技法を使って花草模様の作品を作陶していました。
田村耕一の作品は初期の頃から高評価を得ていましたが、その後は刷毛目と呼ばれる刷毛を使用した技法や筆で直接模様を描いたりなど様々な技法を用いります。
また、鉄絵を基礎とし銅彩や青磁に使われる釉薬を使用するなど作陶の幅が広まり、田村耕一の高い芸術性と表現力が評価されるようになりました。
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また、弊社では、田村耕一の作品以外にも田村耕一が生涯の師として仰いだ富本憲吉や、田村耕一の作品を認めてくれた浜田庄司の作品もお買取りしております。
買取可能な陶芸作家
板谷波山、ルーシー・リー、辻清明、葉山有樹、辻村史朗、前田正博、鯉江良二
范正根、中川自然坊、高内秀剛、北大路魯山人、清風与平、吉向十三軒、楠部彌弌
黒田泰蔵、松井康陽、國吉清尚、須田青華などなど