平賀亀祐の作品をお買取りいたします。
平賀亀祐はパリを拠点として活躍した画家です。
10代で渡米しカリフォルニアで絵を学び、30代でパリへ渡りアメリカ・フランスで多くの実績を残し高く評価されています。
戦後は松方コレクションの返還のため日仏政府間の交渉にも尽力し、勲三等を叙勲しました。
平賀亀祐の経歴
平賀亀祐(ひらが かめすけ)は1889年に三重県志摩市で漁師の家に生まれ、16歳で画家になる固い決意のもと渡米します。
平賀亀祐の渡米のタイミングは、明治政府の移民奨励を経て1907年に日本人労働移民の米国入国を制限する日米紳士協定が締結される前年であり、すでに叔父がアメリカにいましたが、時計宝石店や農場、漁業の仕事をこなしながら苦学しました。
サンフランシスコ美術学校から1909年にサンフランシスコのカリフォルニア大学美術科に転校し、印象派的技法で海洋画や風景画を得意としたジュールス・ユージーン・ペイジに師事します。
1914年、全生徒作品展で1・2・3等すべてを受賞し学費免除の特待生となるなど在学中から頭角を表し、卒業後はロサンゼルスに拠点を置いてサンフランシスコ万博日本館の装飾や、アメリカ国内の日本大使館内装などの仕事を担当しました。
日本人移民の増加は米国白人のなかに排斥の機運を起こし、1924年に新規移入が完全禁止となります。
1925年、美術の中心地であったパリへ渡り拠点を移し、アカデミー・ジュリアンで再び画学生となり、リュシアン・シモンやジャン=ポール・ローランスに師事します。
翌年ル・サロンにて「扇を持つ婦人」ほか計2点入選し、モンマルトルのディアム画廊で個展も開催、翌年はサロン・ドートンヌにも出展し、サロン・ナショナルにて風景画が入選するなど、渡仏後すぐに活躍し始めました。
1920年代当時は日本からフランスへ渡った画家が多く、エコール・ド・パリ全盛の中で過ごした画家に藤田嗣治、佐伯佑三、荻須高徳、前田寛治などが名を連ね、そのうち日本へ帰り教鞭をとった人々によってフランス美術界の気風が伝えられました。
1929年、平賀亀祐はかつて拠点としたアメリカへ一時帰国しロサンゼルスで2回目の個展を開催します。
翌年ニューヨークで個展開催後、パリへ戻りシャルパンティエール画廊で開催した個展はさらに好評となり、一部作品はフランス政府に買上げれられます。
アメリカとパリを行き来し1935年には故郷三重県でも個展を開き、国際的活躍を続けますが、第二世界大戦が勃発すると1941年に半年間敵国人として収監される憂き目に遭いましたが、かねてから親交のあったピカソやジョルジュブラックの尽力があり開放されました。
1954年にル・サロンにて日本人初のコロー賞と金賞を受け、同年、美術文化勲章、学士院賞も受賞しフランスでの活躍が多方面で評価されました。
このル・サロンでの金賞を獲るまでは日本へ帰らないと決めていた平賀亀祐は、受賞の翌年50年ぶりに日本へ帰国するとブリヂストン美術館などで作品展を開催します。
絵画での功績と並んで、フランスに接収されていた松方コレクションの日本返還に尽力したことも高く評価され、1961年に日本政府より勲三等の瑞宝章・紺綬褒章を受章しています。
自伝的著作「一本の釘」を出版後パリへ戻り、1971年パリ国際美術協会の副会長に就任した同年11月、パリの自宅で永眠しました。
平賀亀祐の作品をお買取りいたします。
平賀亀祐の作品は、エコール・ド・パリを生きた当時の画家特有の色彩感覚・タッチの魅力があり、画題はパリの街並みやフランスの風俗をはじめ、イタリアなど幅広くヨーロッパの風景が多く描かれています。
平賀亀祐がパリで学んだアカデミー・ジュリアンは、ボザールのアカデミズムとは異なる表現を重んじたこともあり、印象派やキュビズムからの影響が多い環境でした。
そのため平賀亀祐の絵にも、写実に留まらない独特の質感があり、この時代を生きた画家ならではのものと言えるでしょう。
同時代の洋画家に藤田嗣治、佐伯佑三、荻須高徳がおり、長く活躍したフランスのみならず日本でも、今後より評価が高まることが期待されています。
いわの美術では、骨董品・美術品を中心にお買取りを行っております。
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