片岡球子は破天荒でアクの強い日本画で異端扱いされ、認められたのは50歳を過ぎた頃でした。
日本画壇の中心的存在となり、2008年に亡くなってからも更に人気を増しています。
片岡 球子 | かたおか たまこ |
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1905年~2008年(明治38年~平成20年) | |
日本画家 | |
受章 | 勲三等瑞宝章(1976年) |
文化勲章(1989年) |
片岡球子は北海道開拓民の8人兄弟の長女として札幌に生まれました。
ずっと医者を目指していたのですが、友人に画家になるべきだと言われ卒業間近に方向転換します。
すでに北海道には幼い頃から兄妹のように育った許嫁がおり、花嫁修業として東京の女子美術学校へ進みました。
親族の家に居候し、休日に美術館に出かける時は女中に尾行されるなど嫁入り前の娘として厳重に扱われていたようです。
卒業時はいよいよ北海道に戻って結婚、という話であったのですが、片岡球子はそれを断り画家を続ける決意をします。
実家からの仕送りが途絶えたため、横浜で小学校教師として働きながら、僅かに空いた時間で創作活動を続けました。
実家とは疎遠になったものの許嫁はまだ待ってくれていたそうで、早く錦を飾って故郷に帰り結婚したいという焦りがありました。
師の吉村忠夫がまだ早いと言っていたにも関わらず、無断で帝展に出品を続け落選を重ねます。
落選続きで落ち込む片岡球子に、小学校の同僚や父兄が心配し、強引に中島清之と引き合わされることとなりました。
片岡球子は帝展とは敵対関係であった院展サイドの中島清之を警戒しますが、説得され院展を目指すことにします。
そのことを師の吉村忠夫に告げると、6年間親身になって指導してくれていた師は片岡球子に破門を言い渡しピシャっと締め出しました。
もう後には引けず無我夢中で勉強して挑んだ院展で、初入選を果たします。
院展初入選の招待日に思いもよらず吉村忠夫が現れ「よかったね」と喜ぶ姿から、優しい師からの破門の真意を知ることとなりました。
しかしやっとの入選も後は落選が続き、『落選の神様』が憑いている縁起の悪い女だと画家達から避けられることもあったそうです。
落選の神様は7年間離れず、それでも諦めることはなく真摯に取り組み続けます。
1939年の34歳の時に院展に入選さらには院友となり、これが転機となり以後は連続入選を重ねました。
入選を重ね始めた戦前の頃はまだ大胆な作風ではありませんでしたが、積極的に色々な師に教えを請い才能を開花していきます。
しかし、絵の上手な小学生が描いたような強い個性は『ゲテモノ』と呼ばれ、自殺をも考えるまでに追い詰められました。
そんな片岡球子を救ったのは小林古径の言葉です。
「あなたは、みなから、ゲテモノの絵をかく、と、ずいぶんいわれています。
今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。
しかし、ゲテモノと本物は紙一重の差です。
あなたは、そのゲテモノを捨ててはいけない。
自分で自分の絵にゲロが出るほど描きつづけなさい。
いつかは必ず自身の絵に、あきてしまうときが来ます。
そのときから、あなたの絵は変わるでしょう。
薄紙をはぐように変わってきます。
それまでに、何年かかるかわかりませんが、あなたの絵を絶対に変えてはなりません。」
この言葉に励まされ、生涯『描きたいものを描きたいように』という信念を貫きました。
時代は終戦を迎え、戦後の作品はそれまでよりもっと突き抜けた大胆な作品が目立つようになります。
絵画と小学校教師の二足のワラジは大変でしたが、子供の奔放な感性に接することが絵に繋がり、何より創作の支えであったそうです。
1955年、49歳で女子美術大学の教員として招かれ小学校を依願退職する頃には、片岡球子の画風は確立していました。
ここから画業に専念し、日本画界の中心人物としてより大胆に力強く創作に取り組むこととなります。
1960年頃に北海道で火山の魅力に囚われた片岡球子は、全国の火山を巡ることとなりますが、次第に富士山に焦点を定めていきます。
富士山は白扇を逆さまにすればいい、簡単だと思っていたら、富士山から「バカヤロウめ」と言われた気がしたそうです。
富士山の高さも奥行きも恐ろしさも表現できず、悩んだ挙げ句65歳で藤沢に引っ越しをし、富士山に通い詰め、晩年まで富士山を描き続けました。
富士山の本画は400点を超えるそうです。
片岡球子が96歳の時に
「あどけない私の描く富士が、人々に勇気をあたえたり、病気がなおるような気持ちになったり、何か良いことに出会いそうな豊かな心に恵まれたり、花の咲く富士山に遊びに行きたくなったり、雪降りしきる富士のがまんを知ったり、富士山の絵で清められたり、できたらなぁ、などと乙女の祈りのような心で沢山描いていくつもりですし、これを実行したいというのが近ごろの私の日常生活です。」
と想いを語っています。
片岡球子は日本画家の中でも人気が高く、その唯一無二の画風から未だに評判が上がってきています。
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