加藤清昌(三代加藤清昌)は京都の東山泉涌寺地区に工房を構える京焼・清水焼の陶工で、煎茶器を主とする茶陶を専門に製作しています。
細かく緻密な絵付けが特徴で、分業体制の整った京焼では珍しくロクロも引ける希少な作家です。
作家について
加藤清昌は1967年(昭和42年)に京都府に生まれました。多くの陶房が立ち並ぶ京都市泉涌寺界隈で育ち、幼い頃から職人の卓越した技を見る機会が間近にあり、かっこいいなと子供心ながらに思ったそうです。
高校を卒業後は京都府立陶工職業訓練校(現・京都府陶工高等技術専門校)に進み、二年間ロクロ成形を学びました。しかし父である二代目加藤清昌がロクロの専門であった事や、良い作品を作り出していくためという理由から絵付けの必要性を強く感じ、陶絵師の水谷光年に師事して絵付けの技術を習得します。
三代目が施す絵付けは染付・色絵・交趾など複数の技法を用いて行われますが、どれも職人技として高い技術を必要とするもので、一つの技法を習得するだけでも決して簡単なことではありません。思いついたアイデアはすぐに試し、独学と実践を繰り返しながら納得がいくまで作品に向き合ってきました。日本煎茶工芸展には毎年作品を出品し、過去には工芸協会賞を受賞しています。あるインタビューでは「御煎茶道具の枠にはまるだけでなく、もっと広い視野で自分の作品をとらえていけたらいい」と語っており、個展を通じて海外の人々との交流も広めてきました。
伝統を踏まえながらもそれだけにとらわれず、新しい領域に挑戦し続けていく。今後の活躍が非常に楽しみな作家のひとりです。
煎茶道とは
茶道と聞くと抹茶をシャカシャカしているお点前を想像されるかと思いますが、それは厳密に言うと抹茶・茶の湯と呼ばれるものです。私たちが普段気軽に飲んでいるお茶にもきちんと「煎茶道」と呼ばれる式作法があるのをご存じでしたか?ここでは煎茶道について触れていきたいと思います。
江戸時代以前、日本においてお茶と言えば抹茶が主流でした。
抹茶道(茶の湯)は村田珠光、武野紹鴎らによって磨き上げられていき、安土桃山時代に千利休によって完成します。そして時の権力者である織田信長や豊臣秀吉が重んじたことで、徐々に大名の権力を表す手段としての意味合いが強まり、茶会は自らが持つ高価な茶道具を見せびらかす場となってしまいます。その後天下泰平が果たされた江戸時代になると、抹茶道はすっかり形式的なものになっていました。
それに異議を唱えた知識人たちが形にとらわれない茶道として見出したのが煎茶道です。
その中でも黄檗宗の僧であった高遊外は、長崎で習得した煎茶の知識を生かし「価格は客次第、無料でもOK」という独自のスタイルで煎茶を売り歩き、それまで上流階級に限られていたお茶と禅の世界を庶民にも広めていきました。茶室や道具に必要以上のこだわりを持たず、自由な精神や風流を重んじる高遊外の思想が当時の庶民や文化人たちに広く受け入れられ、現在でも私たちの生活に密接に関わっているのです。
成り立ちや歴史、精神性は違えど一期一会や茶禅一味といった根本的な思想は同じである煎茶道と抹茶道。茶道は生活に根ざした文化であり、日本文化の集大成であると言っても過言ではないでしょう。
全日本煎茶道連盟という団体には30程の流派が加盟しており、様々な活動をしています。
興味がある方はこの機会に体験してみてはいかがでしょうか?
加藤清昌の作品をお買取りいたします
いわの美術では加藤清昌の作品をお買取りしております。
木箱や箱書、栞の有無やお品物の状態によって査定額が変わる場合がございます。
お客様ご自身で判断される前にぜひ一度ご相談ください。
加藤清昌のほか、江戸後期から続く京焼を代表する窯元で、二代目は「仁阿弥道八」と呼ばれ数多くの名品を残し現在は9代目となる高橋道八、ヨーロッパに伝わる伝統的な色彩を日本の磁器に応用し、京焼の新しい息吹を吹き込んだ茶陶の名手三浦竹泉、歴代の当主それぞれが独自のスタイルを生みだし、常に新しい事に挑戦し続けてきた八代続く京焼の名家清水六兵衞など、記事でご紹介させて頂いた作家以外の作品もお買取りさせて頂いております。
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