日下部鳴鶴の書作品をお買取りいたします。
写真のお品物は、以前いわの美術でお買取りいたしました、日下部鳴鶴の掛軸です。
日下部鳴鶴は明治の三筆に数えられる書の大家で、幕末から明治維新の動乱の時代から大正時代にかけて活躍しました。
日下部鳴鶴について
日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)は1838年に彦根藩士の次男として江戸に生まれ、22歳の時に父の実家にあたる日下部家の養子となり、その娘結婚し家を継ぎました。
わずか1年後に養父が桜田門外の変で大老井伊直弼に供して亡くなり、失意のなか禄が減らされ困窮するものの、書道に専念することを決意しました。
特定の人物に師事せず、詩文は同じ彦根藩士の岡本黄石に学び、書は巻菱湖や趙子昂に私淑し、26歳頃からは貫名菘翁に傾倒して学びます。
明治維新後には中央政府に徴用され太政官の少書記官に任じ、続いて大書記官に進み太政大臣三条実美と内務卿大久保利通に信任されるに至ります。
この頃住んだ麹町では、同じ明治三筆の巌谷一六と隣家で書友として信仰を深め、他の東京在住の文人たちとも交流を持ちました。
しかし明治11年に大久保卿が暗殺されると、桜田門の傷心を乗り越え苦渋の決断の末出仕した新政府で再び起きたこのような事態は、鳴鶴に官を辞し書法の研究に専念することを決意させる大きな契機となりました。
退官の翌明治13年に日本の書道にとって歴史的な邂逅が起こります。
清国駐日公使の何如璋に招聘され、高名な書家・金石学者である楊守敬が、漢魏六朝を含む歴代の碑版一万二、三千冊と各種法帖類を携えて来日しました。
楊守敬の目的は中国本土で散逸し日本に残存する漢籍を調査・収集し持ち帰ることでしたが、同時に日本には資料の乏しかった漢魏六朝時代の書を伝えることとなります。
かねてから楊守敬の評判を知っていた鳴鶴は巌谷一六と松田雪柯とともに訪ね、楊守敬の4年の滞在の間に最新の書法と碑帖をもとに六朝楷書をはじめとする中国書道歴代の書体の習得と研究に没頭します。
鳴鶴らはとくに逞しい生命観の溢れる北魏の書法に注目し、これに初唐の規範性を加味することによって、明治維新を経て新興の機運にある日本人にふさわしい書体を築きました。鳴鶴の掲げた書美の理想は明治・大正期の書を導く大きな理念となり、現代まで続く後進の書家の道しるべとなりました。
楊守敬が任を終え帰国した後も書簡の往復と、鳴鶴の弟子である山本竟山が日本と清を往来し終生交流を続け、互いの書作品が日本と中国に残されています。
明治24年に鳴鶴自身も渡清した際には東海の書聖来ると歓迎を受け、考証学者の兪 樾、書画家の呉昌碩、金石学・書画家の呉大澂、書家の楊峴らと交流をもちました。
帰国後は後進の指導につとめ多くの門人を輩出し、中林梧竹や河井荃廬らと結成した談書会にて書の鑑賞と研究に先鞭をつけ、近代日本書道の興隆に大きな足跡を残しています。
日下部鳴鶴の掛軸をお買取りいたします。
日下部鳴鶴の書は帖学的な教養を基礎にして大陸の書道史を体系的に吸収し、廻腕法という楊守敬伝来の書法で、それまでにない独特の書体を築き上げました。
全国に残した揮毫の石碑中でも青山霊園に立つ大久保公神道碑は最高傑作とも言われ、畢生の作として鳴鶴73歳の時に完成しています。
碑文と並び多く現存する掛軸の多くは鳴鶴自作の漢詩が二行詩または三行詩となっており、写真のお品物も力強く流麗な草書体の三行詩に、野鶴老人とみられる刻印から鳴鶴晩年の作であることが伺えます。
鳴鶴の書体は多彩で、それぞれの書体に主たる手本となった書家・作品があり、楷書は北魏の鄭道昭や高貞碑と初唐の諸大家に、隷書は漢の西狭頌や張遷碑、行書は王義之の蘭亭序と集字聖教序、草書は孫過庭の書譜と王義之の十七帖などが基になっていると言われています。
日下部鳴鶴の作品は中古美術市場でもお取引が見られ、なかでも隷書体の作品が人気です。
ご自宅やご実家、蔵やお店のお片付けで、ご売却予定の日下部鳴鶴の掛軸がございましたら、ぜひいわの美術へご一報くださいませ。いわの美術では古美術・骨董品を中心にお買取りしており、専門知識の豊富な査定員が高価お買い取りに努めております。
お買取り査定のお申し込みはお電話・メール・LINEで受付しており、書の作品の場合は写真を添付いただきますと、ネット無料査定が可能となります。
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