向井潤吉の民家の風景画をお買取り致します。
いわの美術でお買取りしましたお品物から、向井潤吉の風景画リトグラフをご紹介します。
向井潤吉は、昭和前期まで全国各地に残っていた古い民家を主な画題に選び、実際に現地に足を運び制作してきました。
地方の長閑な風景が描かれた作品は郷愁を誘い、多くの画家にも影響を与えました。
画家の古民家と田園風景へのあたたかな眼差しにあふれた作品は現在も人気が高く、弊社では肉筆画とともにリトグラフもお買取り対象となります。
向井潤吉について
向井潤吉は1901年に京都市下京区で、宮大工の家系に生まれました。幼少期は家に職人が住み込み、輸出用の刺繍屏風などを制作している環境で育ち、日本画を勉強する約束で京都市立美術工芸学校予科に入学します。
しかし油絵への転向を志し2年で中退し、家業を手伝いながら関西美術院へ入学し、洋画を4年間学び、1919年に二科会で初入選しました。
翌年無断で上京、働きながら川端画学校で学び再び京都へ戻ります。
紆余曲折しながら絵の道を歩む青年期はさらに続き、1927年には当時最安で欧州へ赴けるシベリア鉄道を経由してフランスへ渡りました。
3年間の滞仏中、パリでは主に昼にルーブル美術館で写生を行い、夜にグランド・ショミエール芸術学校で学ぶ生活を続けました。
生活ぶりは苦しくともヴェネツィア派からバロックにかけての古典名画や、コローなどの模写を通して多くを学び、またフォービズムの表現からも強い影響を受けました。
1930年に帰国すると模写作品の展覧会を開催した後、フォービズムの作品11点を二科会に出品し、樗牛賞を受賞します。
このころ、現在の向井潤吉アトリエ館のある世田谷区弦巻に居を構え、終生の拠点としました。
しかし日中戦争の激化に伴い1937年から中国へ従軍し、翌年大日本陸軍従軍画家協会に参加し、続く第二次世界大戦の間も戦争画を描くようになります。
1944年にビルマから帰国後は、軍需生産美術推進隊員として炭坑で制作し、この時偶然手にした図録で見た民家の美しさが、その後の風景画作品へつづく契機となりました。
終戦後、民家の風景に特化するようになった時、向井潤吉は40代となっていました。
しかし10代20代に不屈の精神で画業の道を拓いてきた精神はくもることなく、敗戦後まもなく行動美術協会を結成し、さらなる新天地へと進みます。
1945年の秋に制作した「雨」で描いた草屋根の民家を皮切りに、地方各地に残る民俗色豊かな古民家の風景画に精力的に取り組みます。
最初の頃の作品では住民の労働風景がともに描かれていましたが、しだいに民家と風景に特化し、現在よく知られる向井潤吉の風景画様式が確立したのは昭和30年代と言われています。
高度経済成長は敗戦後の日本を世界有数の経済大国に押し上げ、今日の姿へ導いた重要な時期でしたが、同時に古くから残る風景は次第に失われていきました。
向井潤吉は1000軒を超える古民家を風景画として残した記録があり、草木が繁茂しすぎず家屋を描くに適した2~4月の早春と10~12月の秋と冬に、主に風景写生を行いました。
現在私たちが見ることの出来る藁葺の家屋、歴史ある古民家の多くは、重要文化財や観光地として適切に整備された姿となっています。
しかし向井潤吉の絵に登場する伝統家屋は、生活空間としてありのままの状態で描かれ、当時の人々の暮らしが窺えます。
鑑賞者のある人には懐かしく、ある人には新鮮な古き良き日本の風景は、今後も長く愛されるでしょう。
向井潤吉の作品をお買取りいたします!
向井潤吉の画業は林喜市郎にも影響を与え、他にも黒澤信男、中村琢二、石川茂男、雨宮英夫、尾身周三、守家勤、身野友之などが古民家の風景画を制作し、中古美術市場で人気となっています。
風景画には数々の人気ジャンルがあり、山、水辺、パリなど欧州、そして日本の田園風景があります。
古民家はとくに自然景観以上に現存していないこともあり、蒐集家に人気の画題となっています。
いわの美術では美術品・骨董品を中心にお買取りを行っております。
専門知識の豊富な査定員が拝見し、中古美術市場の需要を鑑みた最高値のお買取り額をご提示できるよう尽力いたします。
査定はすべて無料で行っております、メール・LINEにてお写真をお送り頂きますと、オンライン無料査定がご利用可能です。
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