王一亭の書画をお買取り致します。
写真のお品物は、いわの美術でお買取りいたしました、王一亭の書画です。
王一亭は清朝末期から中華民国の時代に活躍し、実業家として成功しながら書画でも多くの名品を生みました。
貿易を通し親交の多かった日本には多数の作品が残され、現在の中古美術市場でも人気の高いお品物となっています。
こちらの作品は贈答用に描かれた2枚見開きの色紙で、左上に作品題名と宛名、号の白龍山人が記されています。
実業家・画家 王一亭の経歴
1867年に清江蘇省で生まれ、13歳の時に上海に上り余銭荘で徒弟となり、仕事の合間に外国語を勉強し、普段の努力で貿易界での活躍基盤を築きました。
上海では書画の師となる任伯年(にんばくねん / 任 頤じんい)と出会い、元末四大家の一人である呉鎮の画法を研究します
また同じ師から本格的に画を学んだ呉昌碩とも親交をもち、このころ呉昌碩の文人画は上海の富裕層からの注目を集め高値がつくようになりました。
書画の修行をしながら海運業の商店で経理を務めていた王一亭は、1906年に上海予備立憲公会会董へと出世し、翌年日清汽船上海支店の仲買人となります。
日商大阪郵船でも同職を務め、三井洋行傘下の上海製造絹糸会社の社長、1909年に滬南商務総会の会長となり、上海商務総会議董、上海自治公所に任官され、一躍財界の要人となりました。
多方面への投資を行いながら上海の地方自治に携わり、1910年に中国同盟会に入会、上海機関財務科長となって資金援助も行い、辛亥革命が勃発すると商界の人員を革命派につかせる手配もしました。
上海軍政府でも要職となり、1912年に南京で拓殖学校を開校するも翌年、第二革命の失敗で革命派が敗北し、状況が一変します。
王一亭はイギリス租界に逃れ、絵に没頭して数年を過ごしました。
1915年中国商業儲蓄銀行の董事として復帰、2年後董事長となり無事に実業家として再起を果たします。
1920年代から1930年代の上海は、東洋のパリと称され、東西のあらゆる文化が混在し、貿易と金融で栄えた先進都市でした。
ニューヨーク同様ジャズが流行し摩天楼が建設され、多くの外国人が最先端の娯楽を求め訪れました。
世界有数の豊かな国際都市で成功していた王一亭は、慈善事業も重んじ、1923年に日本で関東大震災が起きた報せを聞くと、翌日に組織された中国協斉日災振会の副会頭として支援物資を集めます。
9月12日に日本に船で物資が到着し、これが関東大震災への外国からの支援物資第一号となりました。
1925年に逝去した孫文の墓所図案を選定する顧問も拝命、1927年に国民政府中央救済準備金保管委員会委員長など歴任し、1932年に国難会議に招集されます。
日中戦争へ向かう不穏な情勢で過ごした晩年は仏画をよく描き、1929年に中国仏教会を組織、書画を売った利益は慈善事業に寄付していました。
1937年に第二次上海事変が勃発すると香港へ逃れ、まもなく上海に戻るものの1938年に70歳で亡くなりました。
王一亭の作風について
王一亭が好んで研究した元末四大家の呉鎮は、さらに遡る五代の巨然を模範として、ともに文人的な山水画を得意としていました。
王一亭の描くモチーフは人物・花鳥・山水と多岐にわたり、実業家として成功していながら仏教について熱心に修めたことから、晩年は仏画を多く描いています。
書も堪能で一行書や詩の一節を書いたもの、それに画も描かれたものと多岐にわたり、いずれも掛軸として軸装されているお品物が多くみられます。
多様な作品を残し作風から王一亭と判断するのが難しく感じられる作家ですが、多くの場合、白龍山人や王震の名が入っています。
王一亭の書画をお買取り致します。
いわの美術では骨董品・美術品をお買取りしており、中国美術に精通した査定員が在籍し、中古美術市場の需給状況を鑑みた最高値にてお買取りできるよう尽力しております。
ご自宅や蔵、倉庫、ご実家のお片付けで、ご売却をお考えの王一亭の作品がございましたら、いわの美術にお任せくださいませ。
中国美術のほか書道具・茶道具など、他の品目とあわせてお買取りすることも可能です。
王一亭の作品は100年余りが経過した骨董品であり、お品物のお買取り額は保存状態に左右されます。
シミ・ヤケ・破れなどの有無、軸装の状態、共箱の有無、箱の書付などが重要な判断ポイントとなります。付属の品は添付していただけると、良いお買取りにつながり易くなります。
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