竹久夢二 黒船屋大正時代に美人画で一世を風靡した詩画人・竹久夢二による『黒船屋』限定300リトグラフ シリアル番号入です。 フランス画家キース・ヴァン・ドンゲンが1908年に描いた『黒猫を抱く女』と同じ構図で、当時の恋人で虚言癖があってもなお魅惑のお葉(16歳)をモデルに描いたと言われ、竹久夢二の代表作として名高い作品となります。 |
竹久夢二の故郷、岡山県 瀬戸内市は古くから旅芸人が頻繁に往来する宿場町でした。
芸能好きの竹久家は旅芸人の世話役を引き受けており、竹久夢二も幼い頃から舞台芸術に慣れ親しみ感性が磨かれます。
美術学校に進学を希望していましたが反対され、将来実業の道へ進む約束で1902年 に入学したのが早稲田実業大学です。
ある日授業になかなか先生が来なかったことから黒板に絵葉書店の看板娘を描き、やっと現れた先生・島村抱月から「これだけ描けるなら、文学などやめて絵に進んだらどうかね」と絶賛され、これをきっかけに雑誌の表紙や挿絵の仕事をすることになり、大学は中退します。
絵葉書が大流行であった時代背景もあり、1905年のデビュー直前に『ハガキ文学』で入賞すると瞬く間に売れっ子になりました。
雑誌の表紙や挿絵などの大衆向けのアートの他、封筒、千代紙、半襟、浴衣などのデザインで活躍し、近代の商業デザインという分野の先駆けとなっています。
夢見るように甘美な美人画は『夢二式美人』と呼ばれ憧れの理想像として広く支持され、雑誌に掲載された美人画からファッションのブームが起こる程の影響力でした。
夢二と名がつくだけで飛ぶように売れる勢いであった一方で、夢二に商才はなく安く買い叩かれていたようです。
絶頂期を過ぎると、関東大震災によりスポンサーが減り、恋人でモデルのお葉へのあまりにも不誠実な仕打ちに世間からのバッシングを浴び人気も低迷します。
そこで1931年46歳の時に若い頃からの切望であった外遊に踏み切りますが、これらの滞在は過酷を極め命を削ることになりました。
アメリカでは早々に苦楽を共にするはずだったプロデューサーと喧嘩別れし展示会では絵が全く売れず、ヨーロッパでも金策に苦しみ、台湾では膨大な量の作品を悪質画商に持ち逃げされ、帰国後は体調が悪いにもかからわず医者に診てもらうお金すらありません。
結核が判明し友人に助けられる形で療養所に入りますが、すでに末期であったようで最後は医師などに見守られながら静かに息を引き取ったそうです。
旅好きで常に変化を求めた竹久夢二は、恋愛でも常に理想を求めていたのかもしれません。
そしてモデルがいないと描けない質であったようで、芸術家達が恋愛に開放的な時代背景もあり、女性遍歴が絶えなかったようです。
最初の相手は絵葉書店つるやで働いていた未亡人・他万喜(たまき)です。
自作の絵葉書を売り込む形で通い詰め出会って3ヶ月で結婚、2年で破綻し協議離婚、しかしその後も復縁したり別れたりで約10年関係が続き子供も3人生まれます。
そんな中、1910年に他万喜と子供を連れて避暑で訪れた海鹿島で、長谷川カタと出会い好意を寄せますが、一夏の恋はかないません。
その失恋体験から制作した詩『宵待草』は雑誌に掲載され、最終的には曲になり大ヒットしました。
次に1914年、他万喜の自立の為に開店した『港屋絵草紙店』で客の彦乃と出会い、年上女房で口うるさい他万喜に飽き飽きしていた竹久夢二は、お嬢様育ちで学生の彦乃に純愛を感じます。
後に彦乃の親を欺く形で京都で同棲する関係となりますが、同棲の翌年には彦乃は病にかかり、親に連れ戻され入院し僅か23歳で亡くなってしまいました。
その次は1919年、彦乃と引き裂かれて傷心の竹久夢二を心配した周囲が連れてきたのがカ子ヨであり、竹久夢二はお葉という愛称をつけます。
お葉は貧困の中12歳からヌードモデルを務めており、『うそつきお兼』という異名を持ち、SM画家・伊藤晴雨の緊縛モデル兼愛人を辞めたばかりという異色の経歴を持つ15歳で、すぐに竹久夢二のモデル兼愛人となりました。
お葉との関係も1925年41歳の竹久夢二が小説家の山田順子と関係を持ったことがきっかけで破局し、これにより各方面から避難を浴び竹久夢二の画家としての人気も低迷、山田順子ともすぐに別れてしまいます。
多くの女性と恋愛をした竹久夢二の人生は、物語のモチーフとして様々な脚色が加えられ、映画(主演 沢田研二など)、ドラマ、小説、漫画などのメディアで登場しました。
そんなドラマチックな人生だったからこそ他にはない絵が描けたのかもしれません。
独特の抒情的な作風で知られる竹久夢二は独学であったことから行き詰まることも少なくなかったようです。
岡田三郎助に助言を求めた際には、他にはない個性を潰したくないという理由から「自分の傾向に相応しいデッサンをしっかりやって自分で自分を育ててゆかなくちゃいけない」と言われたことからも、その特性が伺えるのではないでしょうか。
竹久夢二の美人画は微笑みながらどこか寂しげなセンチメンタルな趣があります。
三白眼で下まつ毛が長く、うつむきがちで猫背、手足は大きめに描かれていることが特徴的です。
美人を描くと同時に自らの心情も表現していたと言われ、『夢二式美人』『抒情の創始者』『大正の浮世絵師』『大正の歌麿』など様々な名声を集めました。
美術界においては画伯とは言い難く、女・子供向けの絵画と低く見られがちでしたが、近年はその魅力が再認識され美術的評価が上がってきています。
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