中国の清代に活躍した揚州八怪の中でも、特に人気の高い鄭板橋による書画です。
鄭板橋が最も好んでいたと言われている竹が描かれています。
自在なタッチで描かれた竹は墨一色でも緑を濃く感させ、葉の質感も伝わるような穏やかで爽やかな作品です。
こちらの作品のように画が大部分を占め、余白に文字が入るレイアウトは晩年に多く描かれています。
鄭板橋(ていはんきょう)の家は昔は地主で裕福であったのですが、曽祖父・祖父・父と三代に渡り科挙に合格できず、鄭板橋が生まれた頃には資産が尽きて貧乏でした。
ただでさえ苦しい生活の中、鄭板橋が4歳の時に生母が死去し飢饉も起こります。
幼い鄭板橋に自腹を切って食べ物をくれたのは、乳母でした。
乳母は元々は祖母の召使いで、手当もないのによく働いてくれたそうです。
一方で間もなく迎えた継母からは壮絶ないじめがあった、又は聡明で鄭板橋の才能を引き出してくれた、など諸説があります。
継母も鄭板橋が14歳の時に亡くなりました。
貧しい生活と2人の母との死別という試練を経て20歳の頃に童試(科挙の地方試験の第一段階)に合格します。
次の段階にはなかなか進めず、妻子を養う為に塾の講師で生計を立てましたが、雇い主の事業が傾き30歳になったのを機に揚州へ移住しました。
塩商人で栄えた町で知られる揚州は、億万長者がこぞって書画などを収集し積極的に芸術家のパトロンになるなど、文化芸術が栄えていました。
それでも無名の鄭板橋の書や画は売れず、塩商人には見向きもされません。
僧侶の知り合いを増やしそれぞれの寺を泊まり歩く形で旅をし、画家としての深みが増し売れ始めました。
そんな矢先、幼い息子、続いて妻が亡くなります。
もう貧乏は沢山だ、と再び科挙に挑戦する決心を固め猛勉強し、44歳で曽祖父から4世代の悲願である科挙に合格しました。
幼い頃から貧乏で苦労を重ねた鄭板橋はとても人望が厚い名知事となります。
裁判では公平な判決に人々は感銘を受け、飢饉の際は上官に逆らってまで公蔵の米を開放し多くの人々を救いました。
さらに一般的な知事のような巨額の給料を受け取らず、まさに清廉潔白の官史でした。
しかし悪徳商人・役人から様々な嫌がらせを受けるようになり、数年踏ん張りましたが腐敗しきった政治の改革を個人で行うことに限界を感じ、11年で官史を引退します。
知事引退の後は揚州に出戻りとなりますが、以前とは異なりすでに名声が高かった鄭板橋の書画はよく売れました。
売れる一方で転売での高値取引など、画家本人に反映されないお金の取引が年々増えていきます。
そこで自らの書画制作の料金表を公表する手段を取りました。
今では当然のことですが、この時代の中国では画家は依頼人の言い値に従うしかなく、パトロンを持つことで生活していました。
特に文人はお金のことを言うのはいやらしいとされていたので定価の設定はセンセーショナルな出来事でしたが、結果的に鄭板橋はパトロンに頼るしかなかった画家達に、製作者が値段を設定するという職業として自活できる道を示したことになります。
また逆にお金持ちや上級民の特権であった書画の所有も、お金さえ払えば誰でも買えるとして新しい市場を開拓しました。
その後は73歳で生涯が尽きるまで、自身の浪費による経済的困難はあったものの制作意欲は衰えず、作品を描き続けたそうです。
鄭板橋は生涯を通じて貧困と孤独に苦しみ、それが性格形成や作品傾向に強く影響したと言われています。
幼い頃に生母と継母をなくし、長男と妻の他、後妻の産んだ次男も幼くして亡くなりました。
収入が入るようになっても、妓女や孌童(美少年)と浮名を流すなど快楽主義で生活は苦しかったそうです。
前時代の狂気の天才 徐渭を敬愛しており、作品や生き方にも影響を受けています。
書は隷書に楷書などの様々な書体を融合させた『六分半書』という独自の書体を生み出しました。
隷書の割合が約65%であるからそう名付けられたようで、すでにあった隷書の書体『八分書』(こちらは八を連想させるという由来)にちなんでいます。
常に書体の研究をしていたようで、六分半書に限らず様々なスタイルで表現された書は、個性的で奔放ながら風格があり大変人気です。
画は山水を酷愛し、風景を実際に見ることを好みました。
蘭、竹、石が得意で、身近な花や自然を好んで描いていました。
柔らかな線や力強い筆跡、滲みやかすれなど、多様な表現で彩っています。
書の余白に画を描くことが多かったのですが、次第に画のほうが大きく描かれるようになりました。
現存している作品は、知事を引退した後の揚州時代の物がほとんどです。
作品そのものの魅力の他に、庶民の味方の名知事であったこともあり、日本の中古市場でも評価が高い画家となります。