写真のお品物はいわの美術でお買取りいたしました、山下清の直筆ペン画「花火」です。
数多く制作された山下清のペン画のなかでも、扇型に描かれた珍しいお品物となっています。
日本のゴッホと評され時代の寵児となった山下清は、映画「裸の大将」で知られるように放浪の生活を続けながら、
常人離れした稀有な記憶力をもとに旅先の情景を貼り絵とペン画などに残しています。
山下清は1922年に東京都浅草で生まれ、翌年の関東大震災で被災し両親の郷里である新潟県へ転居し、そこで重い消化不良を患いました。
一命を取り留めたものの軽い言語・知的障がいの後遺症が残ってしまい、幼少年期はいじめに遭うなど悩まされます。
1926年に浅草へ戻った6年後に父が病死し、生活のため母は再婚しますが、わずか2年後の1934年の春、養父が清に辛く当たることに耐えかねた母は清と2人の兄弟を連れて福祉施設へ転居します。
この頃から母親の旧姓である山下清と名乗るようになり、同年5月から知的障がい児施設の八幡学園へ通い始めると、園の教育方針として恒例であった貼り絵が清にとって大きな転機となります。
これに没頭していくうちに才能が磨かれ、学園の顧問医であった精神科医の式場隆三郎によって見いだされ、指導を受けることで一層開花しました。
式場隆三郎はのちに清の画集の編著を多数行い、昭和33年の映画「裸の大将」でも監修を務めるなど、学園での出会いから生涯にわたり仕事を支え、また式場には精神病理学の観点からゴッホについて記した著作もあり、彼の芸術分野での豊かな教養が清の創作の礎となったとも言えます。
1937年には早稲田大学の心理学講師であった戸川行男による小規模な展覧会に八幡学園園児の貼り絵を出品し、翌年は大隈講堂にて「特異児童労作展覧会」が行われ、清の作品も展示されました。
同年12月には銀座の画廊で初の個展を、続けて翌1939年1月大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催され多くの人々の称賛を浴び、瞬く間にスターダムを駆け上がることとなります。
梅原龍三郎からは「作品の美の表現の烈しさと純粋さは、ゴッホやアンリ・ルソーの水準に達している」とまで絶賛をされ、同年に青樹社展に出品すると画壇でも認められる存在となります。
20歳で迎える徴兵検査を免れるため、1940年に突如学園を脱走しますが1943年に検査を受けさせられると知的障害により兵役免除となり、以降1954年まで放浪と学園を行き来する生活を送ります。
放浪中は何者にも縛られずぼーっと風景を堪能しながらも、住み込みアルバイトなどで自活するか、民家を回って食事をもらい適当な場所を宿としながら、時折実家や学園に戻っては旅の記憶を再生しながら貼り絵などを集中的に制作していました。
31歳の頃、アメリカのグラフ誌「ライフ」が清の貼り絵に注目し放浪中の画家の捜索を始め、朝日新聞もまた全国網を使って捜索に乗り出しました。
捜し出されてからは注目が集まるとともに放浪できる状態でなくなり、やむなく中断します。
放浪の時期の清を題材にした映画「裸の大将」での脚色から、旅先で貼り絵を制作し各地に残したかのようなイメージを持たれますが、実際は異なっており、旅先で残したものはペン画が主流でした。
清のペン画は下書きなしで的確に描いていることが特徴で、写真のお品物のように特に好んでいた花火大会の情景をモチーフにしたペン画が多く残されています。
爆ぜる花火の豊かな色彩と、それを目前にして喜んでいる人々の後ろ姿も描かれているところに山下清の温かなまなざしが感じられることでしょう。
1956年の東京大丸での山下清展には皇太子殿下も訪れ、80万人にものぼる来場者数は現在まで日本美術史上で破られていない偉業です。これを皮切りに全国で催された130回にも及ぶ個展の多くに、清自身も足を運び、今度は放浪ではなく芸術家として旅し、次第に貼り絵以外にも関心を広げ、陶器の絵付けや油彩などでも才能を発揮していきます。
1961年には式場隆三郎とともにヨーロッパへ渡り、約40日間の滞在でドイツ・スウェーデン・デンマーク・オランダ・イギリス・フランス・スイス・イタリア・エジプトなど10数か国をハードスケジュールで巡ります。
当時はまだ東京オリンピックを控え高度経済成長期に入ったところで、海外旅行は一般に普及していない1ドル360円の時代でしたが、日本中を歩きつくしたため海外を見たいと清は熱望し、スケッチブックを携えてヨーロッパの風景や文化を吸収し帰国後に習作ぞろいの作品群に昇華しました。
貼り絵の他にも素描や水彩画、同期の絵付けなど様々な表現技法を駆使し、遠近法や点描画の表現力、人並外れた色彩センスは成熟の域に達し、晩年の芸術的評価へ繋がるものとなります。
ヨーロッパからの帰国後、全国を巡回する個展で多忙を極めるとともに、高血圧による網膜症が貼り絵制作に影響を及ぼし始め、しだいに目への負担が比較的少ないペン画の比率が高くなり技術に磨きをかけていきました。
周囲からの勧めもあり東海道五十三次の制作を志すと、5年の歳月をかけてマイペースに東京から京都までスケッチ旅行し、フェルトペンのモノクロでシンプルな描線で素描に仕上げますが、熱田神宮まで描き上げた段階で軽い眼底出血を起こし休養に入ります。
2年後の1971年7月、夕食後に家族に「今年はどこの花火見物に行こうか」という言葉を残し脳出血で倒れ、惜しまれながら49歳で亡くなりました。
アトリエの押し入れには未完成と思われていた東海道五十三次の京都までの13枚が保管されおり、静養中でも絵は仕上げようと密かに描き続けられ、遺作として55点で完成した素描を遺しています。
山下清は生涯にわたり自身の感性の赴くまま自由であることを重んじ、美しい景色を見ることや珍しいものを楽しむ心を持ち続けました。
率直な感想を絵に付すこともあり、衒うことない本心が垣間見える文章に、多くの人は純粋さを呼び起こされ共感するものが多くあります。
山下清の絵のモチーフに多く見られるものは、幼少期から大好きだった虫や花など自然のものから、注目を集める契機となった江戸川花火大会の貼り絵に続く、全国各地の花火大会のものなどがあります。
その他にも桜島、富士山、渡欧中にみたロンドンやパリなどの名勝風景の作品も中古市場で人気となっています。
貼り絵作品の多くは遺族の管理下のもと美術館などの保存が多い為、市場に出回る多くはそれら名作をリトグラフやシルクスクリーンで印刷販売したものか、または肉筆のペン画や、希少ではありますが油彩画・水彩画などとなります。
いわの美術では美術品・骨董品を中心に、日本画・洋画・現代アートまで幅広く、中古市場で需要の高いお品物をお買取りしております。
ご自宅やご実家のお片付け、蔵や倉庫の整理などでご売却をお考えの山下清の作品がございましたら、ぜひ、いわの美術へご連絡くださいませ。専門の査定員が拝見し、市場を鑑みた最高値をご提案できるよう尽力いたします。
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