栃木県出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
絵筆により細部を精緻に組み立てていく表現を超えた、ペインティングナイフのバネの反動を利用して生乾きの絵具を重ねていくアクション・ペインティング風の独特の画風を築き、ヨーロッパの画法を追求しながらもひたすら日本の風景を書き続けた画家として知られています。
教育者であった父の影響で幼い頃から絵を学び、川端画学校では川端龍子に日本画を学びました。
川端龍子の勧めもあり、東京美術学校の西洋画科へ進み、在学中に帝展に出品した「友人の肖像」で初入選を果たすなど早くからその才能を発揮していました。
こうして画家として順調なスタートを切った刑部人ですが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波の中で、他の画家同様に自らの絵の個性について深く悩むようになり、長いスランプに陥ってしまいます。
先輩の洋画家・金山平三との数々の写生旅行をした事で時流に惑わされず本来の写実中心の自分の道を発見する事ができた刑部人は、アクション・ペインティング風の独特の画風を生み出し、短時間のうちに重ねられる絵具の一片一片は、混沌とした自然の姿をありのまま掴み取った作品となり、刑部人の独壇場となりました。
その一方、バルビゾン派に憧れている一面も持っておりましたが、「日本の風景を満足に描けない人間がヨーロッパに行ってもバルビゾン派のような作品は描けない」と生涯、ヨーロッパへ渡る事はありませんでした。
また、刑部邸の隣の土地に小説家・林芙美子が夫・緑敏と住んでおり、緑敏は画家でありながら趣味でバラを育てていました。
緑敏は育てたバラを毎年季節になると刑部人のもとに届け、刑部人はそのバラを毎年楽しみにしており、好んで描いていたようで、バラをモチーフにした作品も多数残されています。