東京都出身の大正~昭和時代に活躍した挿絵画家、日本画家です。
美人画で知られる作家の一人に挙げられ、大胆な遠近法、装飾的な画面構成、映画のアングルやクローズアップの手法、新しい印刷技術などを採用した「専太郎調」といわれる独自のスタイルで多くの美人画を手掛けています。
また、挿絵画家としても多数の作品を手掛けており、生涯に描いた挿絵は6万枚を超えています。
そのジャンルは時代小説、探偵小説など多岐に渡っており、幅広い表現力が高い評価を受けています。
東京・浅草で生まれた岩田専太郎は、父親の印刷業の失敗で京都へ引っ越す事となり、京都の友禅図案や印刷図案などの職人の家に通い、その傍ら日本画を菊池契月に学んでいました。
10代後半には東京へ戻り、伊東深水に学びながら印刷図案や玩具の絵付けをしながら仕事を探していましたが、「講談雑誌」で挿絵画家としてデビューし、注目されます。
ちなみに菊池契月は写実的表現に、伊東深水は美人画に定評のある画家であったため、それぞれの良い部分を吸収し、岩田専太郎は独自の画風を築いた事が人気の秘密だと言われています。
関東大震災によって家を失い、大阪へ引っ越し、中山太陽堂の経営する広告出版社プラトン社の専属画家となると挿絵画家として不動の地位を確立していきました。
再び東京へ戻ると岩田専太郎のもとに舞い込んできたのは、連続小説の挿絵や、雑誌、書籍の表紙絵の制作依頼でした。
こうして挿絵画家としてその名を世間に知られるようになった岩田専太郎は、吉川英治「鳴門秘帖」の描線の美しい挿絵が評判となり、「モダン浮世絵師」と呼ばれるようになりました。
美人画家、挿絵画家として有名な岩田専太郎ですが、戦時中は従軍画家として派遣されていませんが、軍報道部から記録画の制作依頼を受けており、「神威特攻隊基地出発」という作品をはじめ、戦争記録画を数点残しており、戦争美術関係の展覧会に出品をしています。
また、晩年には本格的な日本画作品も残しており、美人画、挿絵だけではなく、あらゆる日本画に精通した技量を持っていた事が分かります。
画家としての仕事の他にも美術考証家としても活躍しており、映画監督・山中貞雄の遺作となった「人情紙風船」の美術考証を手掛け、後に山中の遺した原案をもとに制作された「その前夜」の美術考証も手掛けるなど、その才能を惜しみなく発揮しています。