18世紀に活躍したフランスの画家で、ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人としてその名が挙げられます。
日本でも美術の教科書に必ず作品が載っている画家で、当時の印象派となる画家グループの中心的存在とされていました。
しかし、マネ自身は印象派展に参加した事は一度もなく、印象派の画家たちが新しい絵画を創りだそうとしていたのに対して、マネはこれまでの絵画の歴史を乗り越えてこそ意味があると考えていたためだといわれています。
マネは、父は法務省の高級官僚、母はストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘という謹厳なブルジョワの家庭の長男として生まれました。
中学に入学した頃から画家になる事を志すようになり、美術好きの伯父に連れられ、ルーブル美術館などで古典絵画作品に触れました。
しかし、両親は海軍兵学校を受験するように促し、受験を試みますが落第してしまいます。
再試験を待つ間、練習船に見習い船員として南アフリカへ半年間の航海に出発し、帰国してから再試験を受けますが、またもや不合格となり、両親はマネの希望を受け入れ画家としての道を進む事を許します。
こうして当時のアカデミスムの大家トマ・クーチュールに弟子入りし、6年間マネは精力的に過去の巨匠たちの作品を模写、研究に励みました。
日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を古典的絵画の要素を残したまま現代風にアレンジする事で生み出された作品は、マネ独自のもので、さらに表現力を高めるために交流を持つようになった印象派の画家たちの作風や日本の浮世絵や版画から得た太く明確な輪郭線描の技法を取り入れ、不動のものとしました。
今でこそ高い評価を受け、誰もが知っている画家として評価されていますが、『草上の昼食』と『オランピア』という作品は、発表当時スキャンダラスな作品として非難を浴びた作品でした。
その理由として当時の美術界では裸婦が描かれる事はあってもヴィーナスなどの神話の世界の女神たちや浴室や寝室など自然なシュチュエーションで描いたもので、マネの描いた裸婦は着衣の男性と全裸の女性の組み合わせという明らかに不自然なシチュエーションを選んだ事や明らかに娼婦と分かる裸婦を描いていたため「不道徳」とされたからでした。