福岡県出身の明治時代の日本の洋画家です。
旧久留米藩士・青木廉吾の長男として生まれました。
久留米中学明善校(現在の福岡県立明善高校)に在学中、母方の伯父から画を学びました。
画家を志望していたが、武士の系譜を引く父は「美術だと。武術の間違いではないのか」と一蹴されたことは有名な逸話として語られていまが、母親を説得し、父との不和を解消し信頼を勝ち取り、17歳で上京を許可されました。
小山正太郎の主宰する不同舎で2年間、画を学び、東京美術学校西洋画科選科に入学し、黒田清輝らの指導を受け白馬会第8回展に「黄泉比良坂」などの神話画稿10数点を出品し、白馬会賞を受賞して、画家として華々しくデビュ-しました。
東京美術学校を卒業し、「就職しては自由に絵が描けない」と言って坂本繁二郎、森田恒友、福田たねらと制作旅行を企画し、房州(千葉県)布良で過ごし、このとき「海の幸」(重要文化財)など、海を題材にした作品を制作し第9回白馬会展で出品され注目を浴びました。
その後、福田たねの実家(栃木県水橋村)に滞在した青木は、「わだつみのいろこの宮」(重要文化財)をかきあげ、作品を持って上京し、東京府勧業博覧会に出品しましたが、青木が期待するほどの高い評価は得られず、その後の作品は展覧会の入選もかなわず、私生活にも恵まれず、佐賀などを転々とする放浪生活をするようになります。
それでも青木の制作意欲は衰えず、制作を続けますが、心身ともに病んでしまい肺結核の為、入院先の病院で28歳という若さで亡くなりました。
青木の死後、親友でもあり、良きライバルであった洋画家・坂本繁二郎によって遺作展の開催や画集の発行され、後年には『海の幸』『わだつみのいろこの宮』が重要文化財に指定されるなど、現在では高く評価されています。