佐賀県出身の明治~昭和時代にかけて活躍した日本の洋画家で、その作風は外交派的な作風の風景画と日本的情趣の装飾的女性像が特徴です。
肥前鍋島藩の名家であった石尾家で生まれ、本名は石尾芳三郎といい、19歳で岡田家の養子となった事で岡田姓を名乗るようになります。
6歳の時に上京し、旧佐賀藩主の鍋島直大邸内に身を寄せていた経験があり、その時に邸内にあった同郷の百武兼行の作品を見た事で洋画家を志すようになります。
こうして洋画家・曽山幸彦の画塾に入門し、曽山幸彦が亡くなると堀江正章に学びました。
更に画技を磨くため、黒田清輝の天真道場に入門し、黒田清輝の後継者の一人として同時代の藤島武二と共に官展系洋画家の中心的な存在としての力をつけていきました。
また、黒田清輝と共に白馬会の創立に参加し、東京美術学校が新設された際は西洋画科の助教授として迎えられ、西洋画研究のため、第1回文部省留学生としてフランスへ留学しています。
フランス留学の際は黒田清輝の師でもあるラファエル・コランに師事しており、帰国後はラファエル・コランのもとで培われた繊細な筆致と上品な色調の作品を発表しました。
東京美術学校では多くの後進を育成し、本郷洋画研究所では三岸節子、長谷川潔らの才能を開花させるなど指導者としても才能を発揮しており、日本の西洋画に大きな影響を与えた人物として知られています。
また、舞台美術・図案・工芸の分野にも活躍を見せており、現在でも高く評価されている洋画家の一人に挙げる事ができます。