昭和時代に活躍した高知県出身の洋画家で、三越の包装紙「華ひらく」をデザインした事で当時としては破格の報酬を得た事で広く知られています。
本名は玄一郎といい、香川県高松市で生まれました。
小学生の頃から絵がうまく、学校の美術の授業では教師の代わりをする事もあったそうです。
本格的に絵を学ぼうと東京美術学校洋画科へ入学し、藤島武二に師事します。
卒業後は帝展で初入選を果たすと帝展無鑑査として活躍するようになり、帝展改組をきっかけに小磯良平、脇田和らと新制作派協会を設立します。
フランスへ渡った際はアンリ・マティスの指導を受けており、「君の絵はうますぎる」という言葉を受け、自分の画風が確立していないと捉え、自らの画風の模索が始まりました。
第二次世界大戦が勃発すると帰国し、田園調布純粋美術研究室を発足し、後進の指導にあたっていましたが戦後は活動の拠点をニューヨークに移します。
ここニューヨークでの画家生活は猪熊弦一郎の画家人生を変えるほどのエネルギーやパワーに溢れており第二の画家人生を始めるきっかけとなり、模索していた画風の定着が見られるようになり、○や△といった記号と、面白い形をした動物などの抽象画の作品が増えていきます。
また、この頃にはマーク・ロスコ、イサム・ノグチ、ジョン・ケージ、ジャスパー・ジョーンズなどさまざまな著名人と交友関係を深めた事でも知られています。
脳血栓で倒れた事をきっかけにニューヨークから帰国し、冬の寒い季節には温暖なハワイで過ごしながら制作活動を続けました。
猪熊弦一郎の作風は大きく分けると初期の頃は油彩の欧風技法の肖像画や風景画を制作していましたが、ニューヨークに移住してからは色彩と線・形などを利用してデザイン的、抽象的な作品を展開しており、評価としてもニューヨークに移住してからの方が高い評価を受けています。
また、「絵を描くには勇気がいる」とよく口にしており、新しいものへ挑戦し続けた猪熊弦一郎の作品は多くの人の心を捉えています。