フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ出身の画家で後期印象派の中でも最も名前が知られており、率直で素直な表現、大胆色使いが特徴的です。
フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部の牧師の家に生まれました。
青年期は画廊見習いや牧師としてオランダ、ロンドン、パリなどで就労するが長くは続きませんでした。
しかし就労先であるロンドンの下宿先の娘に恋をしていますが成就する事はなく、後に画家になる決心をし、その時に弟に画家になる決意表明を含んだ手紙を送っています。
その後、画家のラッパルトと知り合うことが出来、遠近法と解剖学を学び、アカデミーに入り、アカデミーでは伝統的な権威主義に反感を抱きますが、ルーベンスの色彩に影響を受けています。
パリではロートレック、ベルナール、ゴーギャン、ピサロ、スーラなど最先端の進む画家たちと親しくなり大きな影響を受け、ゴッホの使用する色彩が明るくなっているといわれています。
また当時の流行りの一つに浮世絵などがあり日本に憧れを抱いていたそうです。
パリでの生活に疲れたゴッホはロートレックの勧めもあって強い日差しを求めゴーギャンと共に意欲的に制作活動を行います。
しかし写実的に描くゴッホと写実描写を否定するゴーギャンとでは相性が合わなかったそうです。
その時になぜか娼婦に自身で切り落とした耳を送りつけるという事件を起こします。
耳事件で入院しすぐに退院していますが、ゴッホ自身の希望でサン・レミのカトリック精神病院に入院し、院内で創作活動を行っており、この時の作品は色調と筆触に変化が見られます。
サン・レミの精神病院に入院した翌年にパリ近郊に移りましたが自らピストルを撃ち、その2日後に駆け付けた弟に見守られながら37歳という若さでこの世を去りました。
ゴッホの作品は今でこそ高い価値と高い評価を得ていますが生前に売れたのは、たった1枚だといわれており弟の支援で生活できていたといわれています。
また作品の中でも晩年の2年間に傑作が集中しているとされています。