バルテュスはフランスの画家で、バルテュスというのは愛称で本名ハバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラです。
ピカソがバルテュスの事を「20世紀最後の巨匠」と称えています。
ちなみにピカソがバルテュスの「ブランシャール家の子供たち」を購入した後にバルテュスがパリに居るピカソを訪問しており、互いに呼ばれたように出会っています。
バルテュスはクロソウスキー家の次男として生まれました。
父のエリックはポーランド貴族の流れをくむ旧家の出で、美術史家で画家でもあります。
母バラディーヌも画家で、社交的な人物でも知られており、兄も作家という芸術一家で育ちました。
13歳の頃には画業をスタートさせていますが美術学校には進んでおらず、バロック絵画の巨匠や初期のルネッサンスのフレスコ画を模写し基礎を築いていきました。
この頃の作品は具象表現で徐々に写実的になっていきます。
またバルテュスの作品の特徴でもある同じ空間に存在しながら互いに関係性を持たない作風は生涯通じて見ることが出来ますが、初期の頃の作品から独自の作風が生まれていきました。
その他にもモチーフの不思議なポーズと非現実的な印象を与える、ややのっぺりとした絵具の塗り方をしており、マチエールの厚さにも特徴があります。
バルテュスは26歳の頃に初の個展を開き、繊細な描写で女性像や少女像を描いていましたがシュルレアリスムや表現主義が全盛期だったために売り込みに苦労します。
しかし、この時の作品が生涯通しての代表作となりました。
それからおよそ3年後に最初の結婚をし、離婚となりますが先妻とは生涯友人だったといわれています。
バルテュスは離婚前にパリで開催される日本美術展の作品選定のために日本を訪れています。
その際に画家の出田節子と運命的な出会いの後、フランスで同居をスタートした後、最初の妻と離婚後に出田節子と結婚しました。
バルテュスの意思により出田節子は基本的に和服で過ごしていたそうです。
その後バルテュスは名誉職でもあるイタリア・ローマのアカデミー・ド・フランスの館長に就任し、内装や修復、改修を行いますが館長職が忙しく、この頃のから晩年までは作品が少なくなっていきます。
晩年はスイスのロシニエールに移住し、亡くなるまで創作活動を続けていたそうです。