ピーテル・ブリューゲルの作品は人間味溢れる農民の姿や遊んでいる庶民を多く描いた事で農民画家と呼ばれています。
またブリューゲル家は5代にわたり繁栄し10人を超える画家を輩出しています。
ピーテル・ブリューゲルの生年、生地は分ってはおらず、オランダのブレダにある3つのブリューゲルという村のいずれかだといわれています。
また農民を多く描いたことから農民出身であると考える一方で、知識人と交流があり、教育を受けた都市生活者であったと考えられています。
ピーテル・ブリューゲルの最初の記録は画家組合である聖ルカ組合にピーテル・ブリューゲルの名前で登録だといわれており、組合に加入する平均年齢が21歳~26歳ということから、加入した年から逆算して割り出した数字が生年だとされているそうです。
ピーテル・ブリューゲルが絵を習ったのはクックという当時もっとも有名な宮廷画家であったといわれています。
またピーテル・ブリューゲルの作風に大きな影響を与えたといわれているのが、クックの義兄のファン・アムステルだといわれています。
クックのアトリエを去ってからはアルト・ウェルペンの版画業者のヒエロニムス・コックの下で働いた後に、イタリアを訪れています。
その後ピーテル・ブリューゲルはアルト・ウェルペンに戻っています。
それはヒエロニムス・コックの出版した「大風景画」の中にピーテル・ブリューゲルが描いている油絵の日付で判断出来るといわれています。
ピーテル・ブリューゲルはマリア・クックと結婚しブリュッセルに移り住み、多くの作品をブリュッセル時代に制作したといわれています。
後にプロテスタント弾圧を目の当たりにすることになります。
しかし自身が30代から40代で亡くなる直前に、妻が迫害を受けたり、責任を取らされないように風刺的な作品を焼き捨てさせたそうです。