フェルナン・レジェはフランスの画家でパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックなどに負けず劣らず同じ時期に活躍しています。
キュビズム運動に参加していましたが後にキュビズム派を離れモダニズムを追究し、ステンドグラス、挿絵、陶器、舞台装置、映画など幅広く活躍しています。
フェルナン・レジェはフランスのノルマンディー地方の畜産農家で生まれました。
16歳くらいの時に建築スタジオで修業した後にパリに出て建築製図工の仕事をしながら装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通いました。
この時の作風は印象派風の風景画や人物画などを描きながら独自の作風を模索しています。
26歳位の頃にパリのサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展で大きな影響を受けてキュビズム運動に参加しています。
セザンヌの「自然を円錐、円筒、球として捉える」という言葉に大きな影響を受け、フェルナン・レジェの最初の頃の作品は人物像が円筒形になっています。
しかし、この頃のフェルナン・レジェの作風はキュビズムではなくチュビズム(土管屋)だと馬鹿にされていました。
キュビズム運動に参加した翌年、若い画家たちのたまり場にもなっていた共同住宅兼アトリエのラ・リッシュに住み込みカルク・シャガールなどと知り合いました。
後に有力な画廊に認められ初の個展を開催し、個展開催の翌年に同画廊と専属契約を結んでいます。
同じ頃に前衛画家らでキュビズムが軽視していた色彩を復活させたピュトー・グループに参加しています。
こうしてフェルナン・レジェは、キュビズムや抽象画とも違う独自の作風を確立していきます。
フェルナン・レジェは第一次世界大戦に従軍しています。
そこでは大砲などの兵器の機能美に魅せられており、また兵役期間の休暇中に拝見したチャップリンの映画にも影響を受けており作風に現れています。
フェルナン・レジェの作風が確立した以降の作品は、人間と機械文明の共存に関心があったのか、人物と共に機械をモチーフにした作品が多く、モチーフもロボットのように単純化されています。
晩年は建築壁画や舞台美術、映画などに携わり、第二次大戦が勃発すると戦禍を避けて渡米し、アメリカで活躍しています。
帰国後もステンドグラスや版画、書物、焼物など広く活躍しています。
フェルナン・レジェがこの世を去った後にフェルナン・レジェ美術館が建てられており、開館式にはピカソ、ブラック、シャガール、政治家で作家でもあるアンドレ・マルローも列席しています。